遊びについて
パンの愛人

 なにも自慢するわけではないが、わたしは遊びの好きな人間である。それは、同等の道徳教育を受けた同世代のひとたちと比べてみても、とくに顕著な例であると思う。たとえ自分は参加していなくとも、遊んでいるひとのことを観察したり、その場の空気に軽く触れたりするだけでも、わたしの心は楽しくなる。こういった心の動きは、理性の力によるものではないから、わからないひとをわからせるには、どんな理屈で説明しようともひどく困難であるにちがいない。なので、わたしは無理してまでその楽しみをひとと分かち合おうとはおもわない。生理的な好悪においては、それを受け入れることとそれを認めることとは、おのずから別問題になるからである。

 おそらく、わたしは遊びのなかにある自由や解放感といったものが好きなのだ。そこにあらわれる人間的な喜びに、わたしはつよく惹かれるのである。逆に、義務や強制といったものはわたしをひどく滅入らせる。
 もちろん、ゲームにはかならずルールが必要なように、どのような遊びにも義務や強制の力は存在する。本来的に自由と義務は相互依存的な関係にあるので、なにからどのように自由になるかが、この場合重要になるわけである。自由とは幸福的な義務の甘受であるともいえる。
 遊びが感覚的な満足であるかぎり、なにが遊びでなにが遊びでないかは、最終的には主観の判断によるわけだ。この点については、トムソーヤーのペンキ塗りの話を思い出せばいいだろう。ひとによってはビジネスが遊びにもなりうるし、場合によっては、禁欲的なライフスタイルがある種の官能的な悦びを与えてくれるかもしれないのである。快楽を手段ではなく目的とすることで、遊びはその魅力の直接性を保持している。

 どんな美名をつけて呼ぼうとも、欲望は盲目であるから、おのれの使命を貫徹しようとするかぎり、どんな障碍も排除して突き進もうとする。遊びが、このような衝動に支えられているとすれば、その危険性について道徳や宗教の側から常に問題視されてきたのも当然といえる。

 ところで、わたしの行動原理は、あくまで消費的な態度にある。reserveやinvestといった、生産的で実利的な判断はわたしには向かない。周知の通り、現在、日本をはじめとする経済先進国ではいわゆる第三次産業が経済活動の中心を占めているのであってみれば、わたしのような人間は、ひとによってはあまりに軽佻浮薄に見えるかもしれない。企業にとっては、余程のいいカモということになるであろう。
 しかしわたしのいう遊びとは、元来無目的のその場かぎりのものであって、この嗜好性の底には時間の概念にたいしての意識的な持論が潜んでいるのだ。
 つまり、わたしは遊びにおいて永遠のnowを追い求めているのである。遊びに没頭しているかぎり、わたしは一切の過去や未来をかえりみない。そして、もちろんわたしはそういった態度が、いつかわれわれの社会生活に復讐されることも知っている。社会が自分を他者として扱う場所であってみれば、遊んでいる人間は自己として自分に対峙している点で、必然的に反社会的な存在なのである。

 ここまで書けばわかるとおり、わたしはまた極端な個人主義者でもある。わたしはわたしの欲望が、わたしのオリジナルであることを決して疑わない。外面的にはどう映ろうとも、自己喪失者は遊びの本質に触れることはできないのである。歴史をひもとけばわかるとおり、遊びの達人たちは常に偉大な個人でもあったのだ。遊びはひとつの哲学である。たとえチェス盤の正方形のなかに全宇宙が反映されていたとしても、なんら怪しむには足りない。

 で、白状してしまえば、わたしは自分の遊びの能力のなさには幻滅している。何をやっても、その成績はよくて平均止まりである。あえて好意に解釈をすれば、そのおかげで人生の破滅を逃れることができたということになるであろう。

 何かを為すべきために与えられた人生を為すべからざることのために浪費するには、どれほどの精神の強靱さが必要であるかを考えるとき、また、人生の破滅が生の根源への復帰にもなりうるというあの逆説的な生命の神秘をおもうとき、わたしはいくらか不安になってくる。

 明日があるとおもえなければ
 子供ら夜になっても遊びつづけろ!


散文(批評随筆小説等) 遊びについて Copyright パンの愛人 2008-06-27 18:44:01
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