神と疑似餌
かいぶつ

神様を捕獲するのには疑似餌がいちばんだ
と常連客の花白さんは言っていた
彼は今年になってもうすでに3輪も
1mオーバーの神様を釣り上げているらしい
その3輪目を釣り上げたのがつい先日で
かなりの大物であった上になんと
天使も一緒に引っ掛かっていたんだとか
身振り手振りを交え、やや興奮気味に
その一部始終を話す花白さんの周りは
自然と人だかりになり、釣竿のことなど忘れ
皆、熱心に彼の話に夢中になっていた

僕はどんなに多忙を極める時期であろうと
たまの休みの日となれば必ず釣りに行くほどの
釣りキチなのでもあるが
何よりこの釣堀が大好きなのだ
山から運ばれてくる風や匂い、水の音や湖面の輝き
そしてここに集まる人々
普段、何を生業として暮らしているのか見当もつかぬが
僕と同じようにこの場所が好きであることが
ひしと伝わるおじさん方だ
それらに囲まれていると小学生の頃からここに通う僕は
今だ夏休みに呆けているような気分に浸り
骨の髄まで無防備な道楽者になってしまう

僕は今日も早朝からここで釣り糸を垂らし
神様が喰らいつくのを待っている
周りには悪魔を専門に釣る人もいるが
そんなのは邪道だ 流行に流された不良少年の遊び
しかしもう昼過ぎだというのに
今だ1輪も釣ることが出来ないままでいた
神様は比較的水温が低く、涼しい時間帯に
活発的な捕食活動を行う
こう日差しが強くなると神様はいくら目の前に
瀕死の獲物が横切ろうが一切見向きもしなくなるのだ
釣れてもせいぜい食欲旺盛な小物か堕天使
また今日の釣果もボウズなのだろうか

半ば周囲の人々も釣りを諦め
世間話をしたり、帰り支度をする人が目立ったが
僕は天候の変化を見逃さなかった
さっきまで雲ひとつなかった快晴の空は
徐々に濃い雲に覆われてゆき、やがて小雨に切り替わった
夏の雨風は水温を低下させ、神様を活動的にさせる最良の条件なのだ
僕はこんなときのために常備していたレインコートを羽織り
伝説の巨大西洋女神の出現の予感に胸を昂らせていた
一旦、疑似餌を引き上げ、お気に入りの十字架から
指輪に疑似餌を切り替える
この指輪は僕がまだ釣りを覚えたての頃
母と離婚したばかりの父親から譲り受けた
かつて母の薬指に嵌められていた結婚指輪だ
僕はいつになく真剣に一投一投、丁寧に
竿先を操り疑似餌にアクションをつけてゆく
この動きが水中の指輪へ光を反射させ
神様の好奇心を誘うのだ

ブッシュの陰に疑似餌を落としたその瞬間だった
あの幻と言われた巨大西洋女神が姿を現したのであった
水面に飛び上がり、指輪を瞬く間に捕食した
そして深い水底に引きずりこもうとする
大きく撓る竿と引き千切れんばかりの釣り糸
神経を十分に払いながらリールを巻いてゆく
だがここまでの大物となると小手先の技術では到底、敵わない
どんどん糸は引き抜かれてゆく、いけない!
このままでは木の枝や岩に潜り込まれ、釣り糸を断ち切られてしまう!
僕は指輪だけ奪われてしまうことを回避しようと
水際を左右に忙しく駆け回った
一時間の格闘の末、神様も力尽きたのか
確実に僕の足元へと近づき、その全貌を露にし始めている
そして神様の鱗と呼ばれる羽衣が見えたとき
僕は腰に提げていた捕獲網で頭の輪っかから
救い上げることに成功したのであった
飛沫を跳ね上げながら朗々と
聖書を読み上げる女神を目の当たりにしたとき
その想像を超えた、声と姿の美しさに
僕はしばらく息を呑み、言葉も出なかった
震える手で女神を抱きかかえたまま
強まる雨の中、神の洗礼を浴びていた

日もすっかり落ちた頃、僕はすでに仕事を終え
帰宅していた父の待つ自宅へ戻り玄関を開けるや否や
大声で叫んだ
「父さん!見てよ、女神だよ!」
中日対巨人戦を観戦していた父はさも関心の薄そうに
「へぇ、それ食えるのか?」
と言ったきり、また額へテレビを映しては
ライトスタンドへ叩きつけられた特大ホームランに喚声を上げていた
興醒めした僕は胸ポケットにしまっていた指輪を
父の後頭部へ投げつけ、跳ね返った指輪は
畳に敷かれた布団の上へ落っこちた
そして女神を玄関へ置き去りにしたまま
僕は大きく足を踏み鳴らし二階へ上がったきり
居間へ戻ることはなかった

次の日の朝、昨夜は少々やり過ぎたかなと
粛々とした足取りで一階へ降りて行くと
包丁が小気味良くまな板を叩く懐かしいリズムが聞こえた
父は新聞を読んでいる
台所にはエプロン姿の女神の後背
女神は振り返り
「あら、昨日はどうもお騒がせしてすみませんでした。」
左手には指輪が嵌められている
呆気にとられ父へ目を遣ると父は決まりの悪そうな表情をしたまま
何も言わず、新聞から目を離そうとはしない
そういえば昨夜、疲れて直ぐに寝てしまった僕だったが
父が寝ているはずの一階からは
廊下を伝って微かに女性の喜びとも苦痛ともつかない
艶めかしい喘ぎ声が聞こえてきていた

コイツら、まさか・・。

次の休日、僕はまた釣堀へと足を運んだ
驚いている様子の花白さんが素っ頓狂な声で言った
「ありゃ?どうしたんだい、そりゃあ。」
「あぁ。今、流行ってんだよ。」
僕はあれ以来、神釣りを止めた
そしてもっぱら悪魔釣りに精を出している
ペッパーチキンの疑似餌を引っ提げ
巨大魔女を求めて


散文(批評随筆小説等) 神と疑似餌 Copyright かいぶつ 2008-06-10 05:20:35
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