フレグランスボム
影山影司
S氏は首をくくる縄を探していた。子供の頃はニュースで『不況』の二文字を見るたびに不思議な気持ちになったものだ。だが大人になると、それは言葉にするほど生やさしいものじゃないと知った。海原まっただ中のイカダを大波が襲うようなものだった。
このままあと一ヶ月あれば、払いきれない借金を抱えて会社が潰れるのは目に見えていた。毎日毎日ぐるぐると考える。もし自分の会社が、アイデアを買い上げ商品化する、などといったつかみ所のない商売でなければ、もし、大ヒット商品を一つでも作っていれば、いや、そもそも全てが無かったことになれば。
発明家L氏と応接室にて面会したのも、いわば気まぐれのようなものだった。発明家の中には薄汚い浮浪者然とした格好をするものも居るが、L氏は浮浪者そのものだった。古着屋の店頭ワゴンからかき集めてきたような服装に、風呂に入っていないのか浅黒く汚れた肌。体毛は頭髪だけでなく、鼻毛や手足の毛も伸びきっているようだ。
そして何より酷いのが体臭であった。
差別的な表現をしても構わないのであれば、L氏は乞食の臭いがした。抽象的な例えをすれば、粉っぽく、鼻の中の受信機一つ一つをイガイガで突き刺されたような臭いだった。率直に言えば臭かった。
「おっしゃりたいことは分かります」
大仰に手で制して、L氏は懐からスプレーを取り出した。
「私は昔から、自分の口臭が気になって仕方がなかった」
鼻を押さえながらS氏は笑ってしまった。
「今思えばあれは、思春期特有の自分に対する不安感だったのかもしれません。生まれつき胃が弱かったとか、歯並びが悪かったとか、色々理由があったような気もしますがただの勘違いだったような気もします。何しろ、自分自身の臭いなんて分からないですからね……まぁともかく、私はその考えを大人になっても持ち続けていた。血が出るまで歯を磨いても不安だった。だんだん体臭も気になり始め、私は日に三本の制汗スプレーを使い、十回は風呂に入った。職場へ行けば同僚の目が気になり、電車に乗れば隣の人が恐ろしかった。私は引きこもるしかなかった。引きこもって、恐怖と戦うしかなかった。そしてついに、このスプレーが出来上がったのです」
L氏は懐からさっと鉛筆ほどのスプレーを取り出し(S氏は思わず身構えてしまった)自分の体にシュッと吹き掛けた。
たちまち、合成的な匂いがあたりに満ち溢れた。合成的だが、嫌ではない。心地よいめまいがして、軽やかな気分だ。そして、狭くはない応接室を満たす程の匂いだが強烈過ぎもしない。窓を開けようかどうしようかと悩むほどの悪臭が、一瞬で消え失せるとは。
「これが世に広まれば、私はもう不安を感じずに済むのです」
L氏はにやりと笑い、二人はガッチリと握手した。
スプレーはフレグランスボム、と名付けられ発売から一年も経たずにヒットした。やはり誰だって似たような不安を抱えているようだ。学生を中心に爆発的な広がりを見せ、S氏は借金を全て返してもありあまる金を稼いだ。
L氏に報酬を払おうと思い連絡を取ったが、契約の際に書かれた情報は全て偽のものであった。探偵を雇ったりなんやらしてみたが結局見つけ出すことは出来なかった。
服を着る事を憶えた人が、裸で生活できるだろうか?
人々はフレグランスボム無しでは生活できなくなった。
外出前にシュシュッと一吹きフレグランスボム。食事後にもお口の恋人フレグランスボム。お風呂上がりにフレグランスボム。料理の仕上げにフレグランスボム。
煙草がヨーロッパに広まったように、フレグランスボムは街に国に世界中に広まった。そして煙草と同じく、フレグランスボムの危険性が分かったときには全てが手遅れだった。
フレグランスボムのニオイに包まれたビルの一室で、S氏はL氏と初めて出会った日のことを思い出す。
彼はフレグランスボムをS氏に説明するまで使わなかった。自らの臭いを気にして居場所を失ったL氏は耐え難い悪臭を放ち、生きていた。
ニオイの価値観が崩壊してしまったこの世界であの悪臭を放つ男は生きているのだろうか。
自分の体の匂いを嗅いでみたが、ニオイがなんだったかも思い出せない。