鉄道唱歌の旅 東海道編(
http://www.youtube.com/watch?v=ea_76MOZ6vg)
「新体詩抄」「於母影」そして「島崎藤村」の若菜集の上梓と、明治15年から30年まで(1882〜1897)のことを私なりに学習したわけだが、それはJRでいうなら快速電車にのって大きな駅に下車したにすぎない。当然ほかにも、さまざまな詩人たちの活動があった。そこで今回は各駅停車にのりかえて、詩史の上ではマイナーポエットの「大和田建樹(おおわだ・たてき)」という駅におり立ってみた。
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文学史年表の詩のところをぼーっと眺めていると、明治時代の前半はやたらに「新体」を冠した詩の出版物が多いのに気がつく。「新体詩抄」は明治15年の8月に出ているが、同年10月にはもう「新体詩歌第一集」(竹内節編)というのが現れている。明治19年には、「新体詞選」(山田美妙ほか編)、「簒評新体詩撰」(竹内隆信)、新体詩華・少年姿(山田美妙)と、ぞろぞろ出版されていて、「新体詩抄」の影響の大きさがよくわかる。
ところで、それと並んで目につくのは「唱歌」の発行である。「小学唱歌初編」(文部省)は、「新体詩抄」の前年に出され、明治16年に「第2編」、17年に「第3編」、20年には「幼稚園唱歌集」とつづいている。新政府が学制を発布したのは、江戸時代の終焉からまだ遠からぬ明治5年(1872)のことで、このとき小学校の教科に唱歌が設けられた。富国強兵の実現には次代を担う子供の教育が不可欠だったから、唱歌といえども民の徳性の向上と国威高揚のためという面を多く含んでいた。それを知ってか知らずか唱歌のもつ平明さと愛唱性は広汎な大衆に受け入れられていった。
そうした機運のなか、鉄道唱歌(正式名は地理教育鐵道唱歌)は明治33年(1900)に三木書店より第1集が出版され、好評につき第5集まで続編が出された。もともとは子供の勉強に役立たせるために作られた曲であったが(歌詞のなかに地理、歴史、伝説、民話などが折り込まれている)大人にもヒットして、合わせて1千万部という大ベストセラーとなった。作曲は多梅稚、作詞は大和田建樹である。ほかにも「故郷の空」など世に知られた多くの歌詞をかいている。
夕空晴れて秋風吹き
月影落ちて鈴虫鳴く
思へば遠し故郷の空
ああ、我が父母いかにおはす
澄行く水に秋萩たれ
玉なす露は、ススキに満つ
思へば似たり、故郷の野邊
ああわが弟妹(はらから)たれと遊ぶ
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http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/kokyounosora.html)
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大和田建樹(1857〜1910)は、愛媛県の宇和島藩士の家に生まれる。本名は、晴太郎。広島外国語学校で英語を学ぶ。1879(明治12)年に上京。翌年、日本最初の実業家社交クラブ「交詢社」につとめる。1881(明治14)年に東京大学の書記。 1884(明治17)年に東京大学古典講習課講師。 1886(明治19)年に東京高等師範学校教授となる。この年、「新体詩学必携」をかいている。彼もまた「新体詩抄」の薫陶をうけたのである。そして生涯につくった歌詞の数は1300にのぼる。こう言ってよければ、作詞に特化した新体詩人であった。1891(明治24)年に教職を辞し、文筆家となる。1900(明治33)年に「鉄道唱歌」発表。1910(明治43)年に東京新宿で54歳で没。早すぎる死であった。
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彼は、交詢社の書記のあと「学校の先生」になったが、唱歌や軍歌の作詞や雑文などで食べていけるようになると、35歳で文筆業に転じた。 著述は100巻を越えるという。異論もあろうが歌詞を広義の詩とすると、彼は詩を売って生計を立てたことになる。
このシリーズ初の職業詩人として顕彰したいと思う。