潰れた酒屋の勝手口をノックしているハスキー・ボイスの若い女
ホロウ・シカエルボク
どこかのアパルトメントの
窓から下手な鼻歌
握り潰されたマルボロの空箱が甲虫のように転がる
排水溝からささやかなモルツの香り、だけどそれは
はなはだ飲みすぎた誰かの
小便かもしれない
20年も前から
シャッターを下ろしたままになっている酒屋の
勝手口のドアを女はノックしていた
目が合うと、彼女は
「はしたない姿を見せたわね」
とでも、言いたそうにはにかみながら
「お酒持ってない?」
と
つぶやいた
まだ若いのに
物乞いに慣れてる感じだ
持ってない、と俺が答えると
彼女は背を向けて
左手でバイバイの挨拶をした
そこの酒屋はやっていないぜ、と俺が言うと
シャッターの前に腰を下ろして
俺のことを手招きした
俺は酒を振舞う変わりに
彼女の誘いにちょっとだけ乗ることにした
「お酒が欲しくてここをどやしつけてたわけじゃないのよ」
と
彼女は言った、確かに、瞳はしっかりしていて
アル中とか、その他の様々な依存症とは
縁が
ないようだ
すると、と俺は推測した
「君はここの娘さんなんだな、15の頃に家を飛び出したっきりとかいう…」
「――そんな娘がいたの?」
「一度ここの主人にそんな話を聞いたことがあるよ」
「どうしてそんなこと覚えているの?」
確かに――と俺は考えた
「サービスだ」
「なに?」
「缶ビールをサービスしてくれたんだ、二本だったかな」
「…それと娘の話になにか、深い繋がりでもあるの?」
「娘の誕生日なんだ、とやつは言った」「おめでとう、と俺は答えた」
「そんなにめでたい話じゃない」と、酒屋の主人はとうてい笑っているとは言えない笑顔を浮かべた
「出ていったきりなんだ――もう何年も前に」
俺は黙って頷いただけだった、そういうときにかけてやる言葉なんてまずないものだ――阿呆か善人の振りをするつもりでもなけりゃ
「厳しくしすぎたんだ」「俺のヘマでかみさんが出ていっちまったからね」
「どんなふうにすればいいのか判らなかった、一度もだ」
そういう思いは伝わらないものさ、と俺は慰めた(われながらありきたりな言葉だと思いながら)
「そんなことじゃないんだ、そんなことじゃ…」
やつはしばらくそうつぶやいたあと、爪先の少し先を見つめながらこう言った
「これで楽になれる」「そう思ったんだ」「もう躍起になって慣れないことをしなくてすむってな」
俺はやつの顔を見なかった、おそらく他人に見られたくないような顔をしているんだと思った
「あれが出て行くのも当然のことだ」
だけど、と俺は言った
別に何か言うことを用意していたわけじゃなかったが
「だけどあんたはいまもここで彼女の誕生日を祝ってる」
そしてもらったビールの缶を開けた、ふたつ
「娘さんに乾杯しようや」
「そりゃ忘れないよな」
俺は女の顔を見ずに言った
本当にここの娘だったらそうしたほうがいいのだろうなと思いながら
それで、と彼女は言った
少し声がかすれたような気がした――もっともはじめから結構なハスキー・ボイスだったけど
「それで、ここの人はどこへ行ったの?」
さあな…、と俺は言った
「俺はあまり飲まないんだ、その日は家に客が来る日でね…少しは酒も用意しとく必要が合った」「次に誰かのプレゼントを買いに、不意に思い出して立ち寄ったときには、もう、閉まってた」「派手な閉店セールをやったらしいよ」
女はしばらくのあいだ黙っていた
「もう、帰らなくちゃ」と俺は言った
女はこちらを見ずに頷いた
誤解して欲しくないんだけど、と俺は前置きして、宿はあるのかと彼女に尋ねた
ないけど、と女は微笑みながら――それはとうてい笑ってるようには見えなかったけれど
「昔、鍵を置いてた場所を思い出したの…ためしに探してみるわ」「もし開けられなくてもなんとかする、この街にも知り合いはいるもの」
そうか、と俺は答えた
鍵が見つからなければいいのにと思いながら
女は、バイバイと左手を振った
倉庫のところに今でもぶら下がっているかもしれない陰鬱な輪っかを、あの娘が見ることがなければいいのにと、そう、思いながら
――その輪っかには運命の日の日付までは書いていないかもしれないけれど
俺は散歩の予定を少し変えることにした――15分かそこら、それくらいに――
もう一度この通りをぶらぶらと歩いてみよう