人のしあわせそうな顔を見て しあわせになれる人は、
人のふこうを目の当たりにしても ふこうになったりはしない。
きっとその人は ちゃんと ふこうを悲しんでくれる。
だからきっと やさしい
人のしあわせそうな顔を見て 自分のしあわせをはかる人は、
人のふこうを目の当たりにしたら 自分のふこうとくらべる。
きっとその人は ふこうの程度によって 同情したり 嫉妬したりする。
だからきっと いつもなにかに イライラしてる
それこそが ふこうなこととは 露知らず。
「考えるんじゃない。感じるんだ」
そうドラゴン先生は教えてくれましたね。
しあわせとはなにかを知っている人は
しあわせとはなにかを知らない人よりも
しあわせになりやすいのかというと、そうなのかしらと不思議におもう。
しあわせがどうこう言うよりも、
なにもしなくても なにもしらなくても
喜んで生きている人が この世でいちばんしあわせ。
しあわせは言葉で定義してもしかたがない
言葉で説明しても誰かに伝わるものでもない
でも いったいなにがしあわせなのかは
自分で決めるものなのだと思う
しあわせになりたいなら
自分でなにがしあわせなのかをきめること
しあわせについて無理やりに言葉で説明するなら
人それぞれが感じることができる喜びそのものだと思うから
喜びがなかったら しあわせになんかなれない
怒りがなかったら つよくなんかなれない
悲しみがなかったら やさしくなんかなれない
楽しみがなかったら ゆたかになんかなれない
きどひらく? 木戸開く。。。
(感情とは神が人間に与えたもうた天国への扉を開く鍵であるという説が不意にわたしの脳裏に思い浮かんできた。それがなぜいま唐突に姿を現したのかはわからなかったけれど、わたしがそれを単なる説ではなく、確信を持って定理であると断言するのに露の間も必要なかった。そうこれは単なる言葉遊びじゃない。そして単なる間違いでもない! 何にも考えてなかったわけでもなんでもないんだ! わたしはきっと無意識のうちに、真実性を帯びる言葉というものが何であるかについて、悟ったのよ! まったく奥が深いものね。適当にな〜んも深いこと考えずつらつらつづっていても、わたしほどのすばらしい人間がつづればこれほどまでにすばらしい人間の真実に近づくことができるのね!)
荒唐無稽な脳内妄想に沸き立ち、目の前に用意したほうじ茶と大福を喜びに震えながら口に運び、さあ一気に飲み込むぞといったところで、わたしは口に運んだ瞬間にわたしを大いに喜ばせた白くてニクイ奴を思い切り喉に詰まらせて全身でもだえ苦しんだ。30秒ほどのニクイ奴との格闘の末、わたしはキドクラッチから逃れようとする佐々木健介のごとく激しく体をふるわせて湯飲みに手を伸ばし、やっとのことでニクイあいつを飲み干したのだった。
(・・・・・ああ! 生きているってすばらしい! 喉の奥の違和感が全然取れないけれどわたしは生きている! 胸の辺りがなんだかとても痛いけれど、わたしは生きている! ああ〜神様ありがとう〜。おいしいものを食べる喜びの中に絶妙な苦痛を与えてくれるあなたの海よりも深く空よりも高いお心遣いに感謝します。ああ、もう目の前には天国への扉が! 扉が見えているわ!!)
天国への扉は 木製だったのね!!