詩人のシノギ(島崎藤村の巻)
みつべえ

● MIDI「初恋」(http://hccweb1.bai.ne.jp/kakinoki/midi/midi032.html





こゝろなきうたのしらべは
ひとふさのぶだうのごとし
なさけあるてにもつまれて
あたゝかきさけとなるらむ
 
ぷだうだなふかくかゝれる
むらさきのそれにあらねど
こゝろあるひとのなさけに
かげにおくふさのみつよつ
 
そはうたのわかきゆゑなり
あぢはひもいろもあさくて
おほかたはかみてすつべき
うたゝねのゆめのそらごと
 

(「若菜集」序)




 明治15年(1882年)の「新体詩抄」を端緒とする新体の詩の創作は、その可能性に多くの者たちをひき寄せていった。その後の十年をみると、前半は「新体詩抄」の「抜刀隊」が西南戦争に材をとったものであるように叙事詩が多く、湯浅半月の「十二の石塚」(明治18年)、落合直文の「孝女白菊の歌」(同21年)、北村透谷「楚囚の詩」(同22年)などがつくられたが、そのあたりから訳詩集「於母影」(同22年)、宮崎湖処子「帰省」(同23年)、中西梅花「新体梅花詩集}(同24年)などの浪漫的な抒情詩があらわれ、際だったふたつの流れとなって熟していったようである。
 そして、その浪漫的な抒情詩の流れのさきに開花したのが、島崎藤村の「若菜集」(明治30年)である。これは近代日本の、文語定型による、翻訳ではない最初の完成された詩的達成であった。「若菜集」は、さまざま傾向の作品をふくんでいて一概には言えぬが、この詩集が広く世に受け入れられたもっとも大きな要因はやはり、かくのように清新な含羞を抒情にのせた歌の調べによってだと思われる。

そはうたのわかきゆゑなり/あぢはひもいろもあさくて/おほかたはかみてすつべき/うたゝねのゆめのそらごと

 この調べで、藤村は恋愛詩をかいた。「まだあげ初めし前髪の」ではじまる代表作「初恋」は曲がつけられ、船木一夫がうたってヒットしたほど、その詩には愛唱性がある。また「おくめ」の一節、「嗚呼口紅をその口に/君にうつさでやむべきや」などは恋の激情をうたって大衆性が高い。この愛唱性と大衆性、そして恋愛詩であることをもって、今でいうところのポエムの源流とみなすこともできるかもしれない。
 だが現実では、藤村の青春は悲傷にみちて陰鬱なものであった。



 島崎藤村(1872〜1943年)は、木曾の馬籠(現在の岐阜県中津川市)の島崎家の四男として生まれた。本名は、春樹(はるき)。地方名家の17代当主の父・正樹は国学者だった。その父から『孝経』や『論語』を学ぶ。明治14年には上京し、泰明小学校に通った。三田英学校(現・錦城高校の前身)、共立学校(現・開成高校の前身)を経て、明治学院普通部本科(現・明治学院大学)に入学する。明治19年に父が死亡し、島崎家の没落がはじまる。恩人、吉村忠道の援助で勉学に勤しんだが、そのころから現実とのギャップに懊悩するようになる。卒業後は、一時吉村家の経営する雑貨屋を手伝うが、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師となる。

 その翌年、北村透谷らの雑誌「文學界」に参加した。一方で、教え子と関係をもち、教師としての自責からキリスト教を棄て辞職する。1894年(明治27 年)に復職したが、透谷が自殺、さらに兄・秀雄が事業の不正疑惑のため収監され、島崎家の生計が藤村の肩にかかるようになる。翌年には愛した教え子が病没。ふたたび女学院を辞職し、放浪の旅にでる。1896年(明治29年)、東北学院教師となり、仙台に赴任。ここも1年で辞したが、この間に詩作にふけり、第一詩集である「若菜集」を発表して一躍文壇の寵児となった。後続の詩集に「一葉舟」「夏草」「落梅集」がある。

 1897年、詩の韻律研究のため東京音楽学校選課に入学。1899年(明治32年)に小諸義塾に赴任、明治女学校の卒業生、秦冬子と結婚。1905年、冬子が死ぬまでに7人の子をもうけた。しかし創作にかけた貧しい生活のなか、次つぎと3人の女児を亡くした。1906年に小説『破戒』を自費出版。1908年「春」、1910年に「家」を新聞紙上に連載、ようやく文筆一本で生活できるようになったが、1913年、手伝いに来ていた姪と過ちを犯し、関係を絶つためにフランスへ渡る。帰国後、1918年に「新生」。1929年に「夜明け前」。1943年(昭和18年)、大作「東方の門」の執筆途上で死去。享年72歳であった。



 さて、こうしてみると、島崎藤村のシノギは「学校の先生」のち「小説家」である。「若菜集」で有名になっても詩では食べていけなかったようで、同時代の作家、正宗白鳥は「自然主義盛衰史」のなかで次のようにかたっている。

「詩人島崎藤村が小説を書きだしたのは、彼の芸術観の変遷によるのであろうが、そればかりではない。実生活を顧慮したためではなかったかと、私は推察している。当時、詩では生活費は得られなかったのであった。新体詩というものは大抵無原稿料で雑誌などに発表されていたのだ。青少年の間に心酔者の多かった藤村にしても、作詩によって得るところはきわめて僅少であったようだ。」



●若菜集(http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1508_18509.html


散文(批評随筆小説等) 詩人のシノギ(島崎藤村の巻) Copyright みつべえ 2008-05-04 15:04:35
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