海に似た形の、しかし実体のない女を語るように
2TO


Meruki『海に似た形の』
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=151980



 何から話し始めるべきだろう。この作品の「彼女」、あるいは「女たち」、はたまた「死にかけた象」について話すべきであろうか。それともこの作品の陰明な空間についての方が読者にとっては好ましいだろうか。しかしながら、それらの形象は私の理解から易々とすり抜けてしまうように思える。あたかも「影」がペンを持つ右手から光源とは逆方向へ逃れ去るがごとく、引き伸ばされた「彼女の骸骨」の「影」は彼岸を越え、「微笑み」によって海の奥底へと誘われるようですらある。

 だが「書く」とは、この「影」の海/快へと赴く運動に抗うことではないだろうか。もはや私ではなく、私の「影」が望むままに白頁のうえにその姿―――「影の、そのまた影」―――を描き出すことを抑/欲すること、「影」の欲動を抑圧することによって。

 すると、この作品は「作者」と「影」とのせめぎ合い、両者の交差する地平において繰り広げられる闘争の光景であると言えるだろう。なぜならば、この作品は光の明るさではなく「明滅」によって、それも「死にかけた電球みたいに瞬く夕暮れの下」(第一連)、「明滅する夕暮れ」(第二連)、あるいは「明滅する影……果てしなく伸びる棘だらけの影」(最終連)といった「暗み」において全体像を曝しているからである。また、それだけではない。その「影」とは(作品中に「女たち」、「友達」、「女の子」といった様々な三人称が散見されるにもかかわらず)、必ず「彼女」という二人称に結び付けられている。つまり、この作品において問題となる「影」とは、「彼女の影」なのである。

 したがって、作品に(書き)落とされた「影」とは、「彼女」という一人の、そして内在的な「他者」である。このことから以下のことが明るみに出されよう。すなわち、「作者」の抑圧するものは、「彼女の影」として表される、何者かの「他者」である。しかしながら、その「他者」とは、「彼女の影」が「作者」の「影の、そのまた影」であるかぎりにおいて、それは「作者」でもある。「私」が「書く」とは、そのような「他者」との関係であり、その意味において、まさしく「私とは一人の他者である」のだ。

 さて、彼らは何を望め闘争しているのか。それは「書く」ことの「主体」である。「影」は「作者」に代わってその主体的存在を取り戻そうとする。「影」は自身が主体でないかぎりにおいて、その欠如を欲望する。「欲望は、或る存在しないもの〔存在の只中で無化する無〕、つまりは他者の欲望、他者の渇望する空虚、他者の自我に向かわなければならない」(コジェーヴ)。そのような死をかけた闘争のなかで、「彼女の影は生まれたり死んだり」(第一連)する。

 しかしながら、その闘争に勝敗がつくことはない。何故ならば、それは「明滅」という光と影との「反復」のうちに捕らわれているからである。詩行の進むうちに、「作者」と「彼女の影」は代わる代わるその座を入れ替えているが、それはあくまでも「身体」に統合された「作者」における葛藤でしかない。

 そのような「反復」は、第二連の「フローリングの冷たさの上に頬をあずけて、明滅する夕暮れが彼女の頭蓋骨をどこまでも引き伸ばしていく」という詩行に、より象徴的な形象として現われている。据え置かれる「引き伸ばされた彼女の頭蓋骨」とは、まさしくヴァニタス(虚栄)、あるいはメメント・モリ(死を忘るな)の図像学的な表出であり、それも、ホルバインの『大使たち』におけるアナモルフィックな頭蓋骨を思い出させる。

参考 ハンス・ホルバイン 『大使たち』 1533
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/h-inb1/h-ren3/h-hol/h-hol1.jpg

 『大使たち』に描かれ、歪められた頭蓋骨、アナモルフォーズについてバルトルシャイティスによれば、このような歪められた形態は、ルネッサンス期に確立された合理的な透視法による絵画への反動であったのだが、その形態を描くためには、むしろ計算された三点透視法の技法が不可欠であったという。つまり、それは理念的なレベルにおいても「歪められた」形象なのである。

または私の聞くところによると、鑑賞者にとって奇妙な形骸も、絵の中にいる二人の大使たちから見れば、自然な形に見えるものであるらしい。他の言によれば、この絵画はもともと階段の踊り場に掛けられており、階段を下りる人の角度(斜め40度くらいらしいが)から絵を見れば、ちゃんとした頭蓋骨の形をなす、ということだ。

 あるいはサルトル、あるいは精神分析学における説をとるにせよ・・・・・・常に問題となっているのは「パース」という二重化された語―――Perspective(遠近法)とParse(構文分析)―――、つまり「視点(視線)」である。『大使たち』と『海に似た形の』とを象徴的なレベルにおいて結びつける「引き伸ばされた彼女の頭蓋骨」には、その「余白=周縁(マージナル)」において何か不可知なものが「潜伏」している。

 この「余白=周縁(マージナル)」は「何もない公園」(第一連)という空虚、または「幾何学模様の蜂の巣」という複数の孔として描きだされた「団地の間」(第二連)として、この詩に内在されている。そして「余白=周縁(マージナル)」を詩の内部に引き込むものこそ、それらの語に付随して書かれている「潮風」・「塩辛い風」、すなわち「波−風」として表される「パルス(Pulse)」なのである。(そのうえで窓ガラスを叩く「砂」やワンピースから落ちた「乾いた塩」とは、「波−風」という「パルス」の調子をニュアンス付けているものであるといえるだろう。)

さらにはこの「パルス」こそ、「明滅」という「反復」、そして「作者」と「彼女の影」との入れ替わりという「反復」を、その律動という一本の(視)線として「友達」・「女たち」―――こういってよければ「(複数の)潜伏者」―――を結びつけている不可視の形象なのである。

「作者(書く私)」と「彼女」との闘争を、「波−風」は第一連・第二連を通して吹き抜けていくが、それは「女たち」という形を取って、改めて最終連の初めに現われる。言語の一般化された形式において、「他者」は「人称代名詞」という「三位一体(トリニティ)」をなしているが、この作品において「身体」に――― 前に書いたように、「身体」は「作者」(一人称)と「彼女(の影)」(二人称)を統合するものである―――「隙間なく」包丁をつきたてているのは、この「女たち」(三人称)である。

 したがって、常に問題となる「他者」とは、この「三人称の他者」であるといわねばならない。精神分析学におけるl’Autre/l’autreという他者の区別は、単に文字の大きさによる程度の差異を表しているにすぎない(それどころか、そのような区別は「upper case(大文字)」・「lower case(小文字)」というようにヒエラルキーを前提にしているのだ。)人称代名詞による区別こそが、「私」と「他者」との本性の差異を示しているのである。

そして、

隙間なく突き立った庖丁を、明滅する影がなんども打ち付ける、果てしなく伸びる棘だらけの影、その先端が彼女の足をほんの少し傷つけた。

という一行に、「明滅する影」という「作者」と「彼女」との闘争が、「女たち」という「他者」の影、つまり、「棘だらけの影」と姿を重ねる。「棘」とはその重なりによって生み出された「パルス」の新たなニュアンスである。そして「彼女の足をほんの少し傷つけた」ものこそ、「身体」として表された「私」と「三人称の他者」とを隔てる「差異」そのものである。

象の鳴き声は低く、夜はいつもこうだった、彼女の家の窓から見えるもの、死にかけた街灯が海の中へ沈んでいくとき、その足元、深海に近い場所をコートの襟を立てて歩いている。

 その隔たり、「差異」の確認された「夜」に「象の鳴き声は低く」鳴くのであるが、そこに「深海に近い場所をコートの襟を立てて歩いている」ものがいる。この一行には一見主語のないように見えるが、むしろそれは主語(となる主体)が要請されていないからではない。むしろ「彼女の足をほんの少し傷つけた」この「差異」は、この「夜」において別の「人称代名詞」となる「パルス」―――「象の鳴き声」を要請している。それはブランショの語る「もうひとつの夜」へと誘うのである。すなわち、「見出すことのできぬ死であり、みずからを忘れ去る忘却であり、忘却のさなかにあって休みなき想起であるところの忘却」(ブランショ)。

 足元には角が取れるほど旧い肋骨が一つ転がり、それをつみなさいとだけ微笑んでいる

「角が取れるほど旧い肋骨」を「つみなさいとだけ微笑んでいる」のは、まさしく「もうひとつの夜」である。しかしながら、それをつかむことはできない。なぜなら「夜間の体験」・「夜の体験そのもの」となった作品は、作者がそれを要請すると同時に「その作品が不可能性の試練にさらされるような時点へと惹き寄せてゆく」ものであるからである(ブランショ)。この「夜」の闇のなかには、ただ「象の鳴き声」だけが、虚ろに響き渡っている。おそらくそれは「不在」という人称代名詞である。だが誰の? 「作者」、「彼女」、または「女たち」、あるいは・・・・・・? この問い、この「微笑み」が、また私を『夜の門口』へと誘っていく。

 しかし実体のない女を語るように
 その実体を透して低音の昇華をわずかに語るように
 私が今宵考えるのは沼地の舌をもつこの粘液性の夜ではない
 殺戮と合体の夜ではない
         ―――トリスタン・ツァラ 『夜の門口』


散文(批評随筆小説等) 海に似た形の、しかし実体のない女を語るように Copyright 2TO 2008-05-03 22:15:04
notebook Home