「詩と言葉に関する覚え書き」 その1
ベンジャミン
『詩の言葉と、僕が知る限りの詩と言葉の境界について』
「わたくしという現象は・・・ そのとおりの心象スケッチです 巨大に明るい時間の集積のなかで・・・ 発見するかもしれません」(宮沢賢治詩集「春と修羅」序 より)
この、今まさに僕の手のなかにある一冊の詩集には、『昭和60年三月 三十六版』と書かれてある。そして、正確ではないにしろ、僕が読み始めてから十数年経ったこの一冊の詩集を僕はまだ読み終えていない。
今まで読んだどの詩集もそう。それが高名な作品集であれ、そうでなくとも、僕はまだ詩集というものを(あるいは一つの作品でさえ)読み終えたことがない。それくらい、詩は(あるいは詩の中の言葉は)時間をかけて読まれるものであると思う。それなのに僕は、詩を書くことにためらいもなく、まるで砂漠に埋もれた金の粒をさがすように、詩を(あるいはそれに似た言葉を)自分から引き出そうと懸命になっている。
かつて僕の詩を評して、「それが詩である所以」を論じてくれた人がいた。けれどそれは正確には、僕の作品に向けられたものでなく、詩を書く人すべてに対して発せられたものであることを、僕自身しっかりと自覚している。
ある人は言う「あなたが書いているのは詩ではありません」、またある人は言う「まるで中原中也のようですね」、またまたある人は「それは賢治の模倣ですか」と言う。
(中略)
実のところ、表題に掲げたような難しいことを論じる気はあまりないので、書きたいことは書けることと違い、それ自体が無意味であるならば、どんなに構築された文章もやはり無意味であるから、あまり長々とした文章にはしたくない。それは読む人にとってとても失礼であるからだ。
(中略)
毎日、たくさんの詩が生まれている。僕が書いている詩もまた、ときおりその中の一つとなり、そしてその多くが消費されるような感覚を僕は感じている。詩は、ある意味においては才能によって、そしてまたある意味によっては学問として、そして趣味の一つとして、そして何より(僕はこれが一番肝要であると思うのだが)たった数個の言葉の集まりでさえ、その一鎖の文章が詩であって、長い時間を経てもなおそれが詩として大切にされるならば、それはまさしく残るべき作品であることを僕は否定しない。好き嫌いは関係なく、その事実を受け止めるだけだ。
ただ、そのための大前提として、詩を書く人が、自らの詩を大切に思うことを忘れてはならない。それを言葉でなく詩としているところに、少なからず理由があると思うからだ。
これは「詩が詩である理由を必要としている」のではなく、むしろその「理由にあたるところが詩を必要としている」からと言ってもいいだろう。
(中略)
どうか詩を大切にしてほしい。
僕は僕が考える「言葉と詩の境界」を、自分が書いた詩を大切に思うことで区別しているように思うから。
どうか詩を大切にしてほしい。
これは僕からの願いというよりも、「詩」がそれを望んでいると思うからです。
2008.5.1 ベンジャミン
(注)「詩と言葉に関する覚え書き」より抜粋、ただし、「その2」はたぶんありません。また、この文章は啓発の意味よりも自戒の意味で書かれたものです(笑) 最後まで読んでくれた方に、深く感謝いたします。
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