大力の女
チアーヌ
俺の会社は、なぜか各大学の空手部、相撲部、柔道部、レスリング部のOBが集まるところで、派閥もいわゆる学閥ではなく、格闘技別と言った雰囲気がある。
ちょっと不思議な会社かもしれない。
俺はボクシング部から来たのだが、ボクシング系は少なくて、どちらかといえば少数派だ。
が、まぁしかし、全体的な居心地は悪くない会社なので、おそらくこのまま定年まで、勤め上げて行くのだろうと、俺は感じている。
俺も今年で35歳。会社では中堅の部類に入って来た。まぁ、平凡ながら、サラリーマンとしては順調な人生なのだと思う。
時は4月。
新入社員の歓迎会が、ホテルの大広間で賑々しく行われた。
各部署ごとに同じテーブルに集まり、社長の長い話を聞いたあとは乾杯。
これは毎年変わらない。
俺は今年、3月の移動で、総務から営業に来た。
大きな会社なので、部署が違うと、あまり顔合わせすることはない。なので、営業に今年初めて来た俺は、新入社員ではないけれど、気持ちは新参者、という感じだった。
営業部は、相撲部のOBが多いらしいと聞いていたが、噂に違わず、みんな背も高く横も広いという立派な体格の社員が多かった。
そして役員が乾杯の音頭を取ると、めでたく、
「新入社員歓迎大宴会」の幕は切って落とされたのだった。
酒が入ってしばらくすれば、場は無礼講状態。
新入社員はまだまだ固くなっているけれど、社歴が長い人間にとってはただの会社の宴会という感じで、みな好き勝手に話を始めた。
そんな中、出て来た話は、やはり格闘技をやった人間が多い会社なだけに、
「うちの社では、誰が一番強いのか」
という話だった。
営業は相撲部出身が多いし、今年の新入社員も見たところ相撲部の出身のようだった。
そんな彼を囲んで、ふとした流れから、話が膨らんで行った。
「営業部で一番強いのは、なんと言っても今年入社の高田君だろうな。何しろ、学生相撲で優勝したことがあるんだからね。大したもんだ」
「いえ、僕は....それよりも、管理部にいる、大学で2年先輩の、白石さんのほうが」
「ほう、彼の方が強いかね」
「ええ、僕は勝ったこと無いです」
「部長!部長だって昔は」
「あはは、僕が相撲を取っていたのはずいぶん昔の話さ。高田君、活躍に期待しとるよ」
「ありがとうございます。がんばります」
「しかしあれですね、この社全体で考えたら、一体誰が強いんでしょうね?」
課長の下川が言い出した、その疑問は、案外誰もが思うことのようだった。
「そうですねえ。そういえば誰なんでしょうね?」
「直接やり合うと、異種格闘技になっちゃうからなぁ」
「社長はあれだよ、柔道で」
「が、古賀専務に学生の頃負けているはずだ」
「高橋常務は、あれだ、少林寺拳法部だったな確か」
「ほう、少林寺拳法」
「まぁでも何と言っても、経理部の駒井君じゃないですか」
「そうだなあ、駒井君だろうな。何と言っても彼はオリンピック選手だからな」
「全盛期の袴田とやりあって、一歩も引けを取らなかったと言いますよ」
「袴田と言えば、プロレスラーの。ほう、駒井君はやりあったことがあるのか」
「なんでも女を取り合っての路上ファイトだったとか」
「はっはっはっ若いということはいいことだねえ」
「まぁでも駒井君だろうね、それに異存はなさそうだ」
「いえ、この社で一番強いのは、社長秘書ですよ」
酒が入っていたせいかもしれない。俺はふと、口を挟んでしまった。
でも、俺が言い出したことは、総務部では有名な話だったし、俺はある程度古参の社員ならば、誰でもその話を知っていると思っていたのだ。
ところが、そうではなかったようだった。
「社長秘書?それって、あの、確か女性だろう」
部長の矢作が不思議そうに言い出した。
「はい、そうです、女性です」
「年は....何歳くらいだだっけ。我が社では、女性の中では古株のほうだよな」
「僕と同じですね。35歳です」
「まぁでも、きれいな女性だよね。ほっそりとして、華奢な感じだが.....しっかりと仕事をこなしているという印象もあるし」
「なに?で、その女性が、社で一番強いと、君は言うのかね、寺田君」
課長の下川も興味津々だ。
俺はちょっと困ってしまった。
「ええ、そうです.....」
言葉に迷いながらそう答えると、部長も課長も、そんなことはありえないとでも言うように、ニヤニヤしながら顔を見合わせた。
「一体何を言い出すかと思ったら。ではあれかね、あの女性が、女相撲でも取っていたと言うのかね?」
「いえ、本人は、格闘技は一切やったことがないと言っていました」
「じゃあ、何が強いんだね、彼女は」
「いやもう、力が強いんです」
「力が強い?どういうことだ。腕相撲でも取ったのか」
「いえ、取っていませんが、やったらきっと、確実に負けると思います」
「へっ、君が彼女に負ける?君だって腕には覚えがあるほうだろう。確か」
「はい、ボクシング部でした」
「じゃあ女に腕相撲で負けるなんてことがあるわけないだろう」
「いえ、僕は全く自信がありません。あれを見たら.....」
俺はつい口を濁した。
「あれって何だ」
みなが俺に目を向けている。
俺の答えを待っているのだ。
(仕方ないか)
俺は、手元にあったビールを飲み干すと、話をはじめた。
とにかく、俺が今まで生きて来た中で、一番強いのは彼女だ、と思う。
美人で、すらりとしていて、気立てが良くて、しっかりもので。
彼女は受付に配属され、俺は情報管理部で働いていた。
俺と彼女は、同期入社で、何気なく話をする仲ではあったけれど、でも、それだけだった。
そんなある日。入社して確か、半年も経っていなかった頃だ。
とんでもないことが起こった。
社に、おかしな男が乱入して来たのだ。
男は鉄パイプとナイフを振り回し、「社長を出せ!」と叫んだ。
そして受付に座っていた彼女を捕まえ、人質とした。
とっさのことで、受付には人も少なかったし、皆凍り付いた。
人質さえいなければ、誰かが取り押さえたところだったろうけれど、今となってはそうもいかない。
たまたまその場に居合わせた俺は、とにかくなんとかしなければならないと、拳を握りしめていた。
人質になった彼女は、突然のことで驚いてはいたようだけれど、案外冷静な表情で、辺りを見回していた。
うちの社の正面玄関は、ちょっとした表通りに面している。
彼女はそれを見て、たぶん、この状態は外聞が悪いと思ったのだろう、ナイフを持った男になにやらささやき、男と一緒にエレベーターの方へ移動を始めた。
そのエレベーターは、社長室へ向かうものだったので、俺は青くなった。
(あの男を、連れて行く気だ)
人質としては、そうするより他にないのかもしれないが、社長室というのはかなり奥まった場所にあるので、あんなところにおかしな男を連れ込んだら、きっと皆身動きが取れなくなるはずだと思ったのだ。
警察だって逆に入りにくくなるだろう。
「いいか!警察に電話なんかしたら、すぐにこの女を殺すぞ!俺は社長に話があるんだ!」
明らかに目が血走っている男が、エレベーター前で叫ぶ。
エレベーターの扉が閉まる前に、俺は階段を駆け上がり始めていた。
8階の社長室前に到着すると、ちょうど男と彼女を乗せたエレベーターの扉が開くところだった。
俺は社長室の扉を確認した。在室の札が下がっていない。
(なるほど、受付の彼女は、社長が今社長室にいないことを知っていたんだ)
男は興奮した。
「なんだよ!社長がいないじゃねえかよ!」
「そうですねえ....すみません」
彼女がいやにのんびりと言う。
彼女の首に回された男の腕が、興奮でブルブルと震え始めた。
「ち、ちっくしょう!」
「とりあえず、待ってみましょうよ。きっとすぐ来ますよ」
興奮している男に構うことなく、彼女は淡々と話している。
(な、なんなんだ。彼女、怖くないのか)
俺は見ていて不安になった。
そのうちに、俺の周囲に、社長の側近たちが集まって来た。
とっさのことで、連絡はあまり回っていないのか、人は少なめだった。
男は、彼女の首根っこを押さえつけたまま、その場に座り込んだ。
ここで社長を待つつもりらしい。
彼女も同じく、ペタリと床に座り込んだ。
いかにも受付嬢らしい、ストレートなロングヘアに、ピンク色の口紅。
肌は色白で、ぱっちりとした目で、マスカラもばっちり。
細身の体に、会社の制服である、水色のスーツが実によく似合っていた。
ほんとのことを言うと、俺は入社したときから、彼女のことがちょっと好きだったのだ。
(なんとかしなくちゃ)
俺は気ばかり焦り、動けなかった。
すると。
どこからか、ポキ、ポキ、と何かを折るような音が聞こえて来た。
不思議に思いながら、音のする方を見ると、彼女が手元で、何かを潰しているような様子が目に入った。
(なんだ?)
よく見ると。
彼女はちょうど座った辺りに男が置いた、鉄パイプを、指先で摘むようにして、捻り切っていたのだった。
(へ???)
俺は一瞬、何がなんだかわからなくなり、周囲を見回した。
社長の側近たちは、みな、唖然としている。
当たり前だ。
見た目、優しげで可愛らしい、華奢な女の子が、いとも簡単に鉄パイプを、指2本で捻り切っているのだ。それも、一センチ刻みくらいの間隔で。
何しろ鉄パイプだ。それを指2本で、まるで楊枝でも折っているかのように、ポキポキと折ってしまうのだ。俺だってそんなことはできない。
俺はいまいち、目の前で起こっていることが、理解できなかった。
そして、おかしな男も、はじめはわからなかったようだけれど、しだいに彼女のやっていることに気がついてきたようだった。
そうして、男は、気味が悪いものを見るような目で、彼女を見始めた。
そうしたら、彼女は、堪えきれないような感じで、クスクスと笑い始めた。
鉄パイプを指で摘むようにして折りながら、クスクスと。
男は、その様子に、不意に恐怖を感じたらしい。
彼女を突き放すようにすると、走って逃げ始めた。
「お、追いかけろ!」
いつの間にやら、俺の後ろに立っていた社長が、慌てて叫んだ。
男は、屈強な男性社員たちに、ただちに取り押さえられた。
俺が話し終えると、場はしーんと静まり返ってしまった。
「そ、そんな話、本当かね」
「本当です。その場にいたものは、みな、その様子を見ていましたから」
「しかし、そんなこと、あるのかね。でもそういえば、前からちょっと不思議だったんだ、社長があの女性を社長室秘書にしていることが....だって彼女は、こういっちゃなんだけど、大した学歴でもないし、英語力もあまりないし」
「そうですね。彼女はしっかりはしていますが、いわゆる勉強方面は弱いです」
「そうすると何かね、彼女はその事件のあとから、社長秘書になったのか」
「そうです。すぐに抜擢されて、今も」
「そうすると、彼女は、秘書というよりは」
「ボディガードのつもりかもしれないですね、社長は」
「なるほど、そうだったのか。しかし.......。大変なものだな」
「彼女のお兄さんと言う人に、話を聞いたことがあるのですが....。お兄さんは、この話を聞いて、もう大笑いで」
「大笑い?」
「相手の男に、よく危害を加えずに済んだと。以前、電車の中で彼女が痴漢に襲われかかったとき、彼女はその痴漢の腕をひねり、そうしてそのまま腕を上に上げ、肩の骨が体から飛び出てしまったらしいんです」
「ひゃあ、たまらんな、痴漢の方も」
「それに、小さな頃は、お兄さんが使っていた鉄アレイを使ってお手玉をしていたそうです」
「お兄さんというのも強いのか」
「はい。お兄さんはアメリカで活躍中のレスラーです。バッファローやクマと戦うプレイで人気を博しているそうですが、そのお兄さんが言うには、彼女のほうが自分の何倍も強いと」
「彼女は、何もしていないのか、逆に、それだけ強いなら」
「イヤなんだそうです、格闘技も、強さを誇ることも」
「しかし、そんな恐ろしい怪力を持っているのでは、なかなか結婚相手は見つからなさそうだなあ」
「いや、結婚してますよ」
「ほう」
「僕と」
「へっ、なんだ、彼女は君の嫁さんか!しかしよくそんな女と」
「あはは、よくそう言われます」
「まぁでもあれだろう、聞いてると、彼女は鉄パイプを折りながらクスクス笑ったり、お茶目で可愛いところのある女性なんだろうな。だから君も惚れたんだろう」
「もう、結婚して10年にもなりますからね。そんなこと忘れちゃいましたよ」
そのとき、彼女が、ビール瓶を持って営業部の席に現れた。
そして、みなににこやかに挨拶しながら、ビールを注いで回った。
「社長室秘書の寺田と申します。今年から主人がこちらにお世話になります。どうぞよろしくお願いいたします」
すると、酔っぱらった部長が、
「怪力というのは、ほんとなんですか、寺田さん」
と、彼女に尋ねた。
彼女は俺を軽く睨みながら、
「なんですか、主人が、またそんな嘘を」
と言いながら、去って行った。
次第に酒が深く回って来て、部長も課長も新入社員も大笑いをしていた。
ホテルの大宴会場は、今を盛りと、賑わっていた。