それにそれはあっという間に思い出したというだけのものになってしまう
ホロウ・シカエルボク




それに名前をつけるほど俺は暇じゃない、そんなものは勝手口から外に放り出してなかったことにしてしまえよ、そんなもののことをいつまで気にしているんだ、トウヘンボクめ
気にしなくちゃいけないものの名前をスケッチブックに書き出して壁の空いてるところへ貼っておけ、そら、そこの
ジャニス・ジョップリンとジム・モリスンのあいだに…そこなら万が一やり遂げることが出来なくったってなんとなく嫌な気はしないから、俺の言ってること判る?やることもやり遂げることもある線上を越えてしまえば大して違いは無いんだってことだよ


朝からなんにも食べずにふらふらしていたせいで腹ペコだったので、郵便局から二つ目の角のパン屋で焼きたてのパンをいくつか買った、店の中にそこそこのスペースがあって、テーブルと、イームズもどきの椅子が何脚か並べられていて――そこでのんびりと食べることも出来たのだけど、「誰がなんと言おうとあたしたちはオシャレなの」と言わんばかりのOL三人組が下品な鳥のように騒いでいたので持ち帰ることにした、そのOLたちは確かにパシッとしたスーツを着こなしていたが――三人が三人とも、それが少し似合わないと感じるくらいにふくらはぎが太かった
まあ、俺が誰かのファッションを批判するなんておふざけもいいとこだけれど
パン屋を出たところで缶コーヒーを買った、プルタブを開けて――一気に飲み干して捨てる、ほんの数百メートルを歩くのにガソリンが要るのさ、これと言って目的の無い移動は決まって燃費を悪くするとしたものだ――このパン屋は昔もう少し橋に近いところにあった…その頃は販売もやってる工場で
もちろん店内で飲食が出来るようなスペースなんてなかった、そのせいかどうか判らないけれど
あの時のパン工場がいまここでこんなこじゃれた店になっているのだと気づくまでに凄い時間が掛かった、正確には…30数年
思い出を探りすぎると現実が上手く把握出来ない、俺は帰り道を辿る、思い出の中ではない、現実への帰り道
あの頃住んでいた家はもう駐車場になっていた
鶏や犬やジュウシマツを飼ったり、何処かから拾ってきた板に裏庭で火をつけようとした記憶の上に誰かが停車している、ひと月八千円とか、そんなくらいの契約で…トムとジェリー、みたいに幼い俺の残像はそこでぺちゃんこになっている、あの頃住処の隣には小さな旅館があって
旅館と俺の家とのあいだにある壁と壁の隙間にもぐりこんで、裏側の民家の壁を伝って…その先の通りへ出るのが好きだった、厨房から漏れてくる蒸気なんかを嗅ぎながら、カニのように横歩きで…あるとき俺は泥棒と間違われたらしくて、家に帰ると母親にえらく叱られた、あのときは何があったんだかてんで理解出来なかったけど
見知らぬ子供が自分ちの壁の上を這ってたら誰だって泥棒だと思うよなぁ
でも歳をとって泥棒になったのは俺じゃなかった、まあそれはまた別の話だけど


そんなこと今まで一度も思い出したことはなかった、どうして今まで思い出さずにいたのか、またなぜ、パンを買ったとたんに思い出したのか――イースト菌に含まれている古代エジプトからのノスタルジアの作用なのか――?近頃クドくなりすぎた缶コーヒーの後味に顔をしかめながら小さな信号を適当に渡って、現在の住処に戻る、もちろん隣に旅館はないし、俺を泥棒と勘違いするやつも居ない、俺は電波状態が悪い場所にあるテレビの室内アンテナみたいに、いろいろなものを取りこぼしながら受信し続けていて、そのせいでインスタント・コーヒーを入れるための湯を沸かしっぱなしにしてしまう、ミルクパンに残った湯はカップの半分にも満たなかった、やり直しだ
ミルクパンの中で弾ける沸騰した僅かな湯は何故だかまるで軽薄に思える
記憶を見ていた、パンを食べながら…
記憶を見ていた、コーヒーの湯気の向こうに
俺であってもう俺でない俺が
やはり俺であってもう俺でない俺の成り立ちを
それが記憶だと言われても遠すぎて釈然としない、思い出すのに適さない時間というものが必ずある、なにもかもはっきりと思い浮かぶのに――生身に返ってくる感覚が何もない、それを進化と呼ぶか成長と呼ぶか、はたまた退化と呼ぶかは気分によって違うところだけど――


たとえば明日は雨になるらしいから、俺はこれを多少疎ましく感じるんだろうね

パンの味は確かだった、だけど





記憶とはそれはまったくひとかけらも

リンクせずに
胃袋に収まったのだ




自由詩 それにそれはあっという間に思い出したというだけのものになってしまう Copyright ホロウ・シカエルボク 2008-04-22 01:27:57
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