七つ森のこつちのひとつが
水の中よりもっと明るく
そしてたいへん巨きいのに
わたくしはでこぼこ凍ったみちをふみ
このでこぼこの雪をふみ
向ふの縮れた亜鉛の雲へ
陰気な郵便脚夫のやうに
(またアラツディン 洋燈とり)
急がなければならないのか
「屈折率」 宮沢賢治
上京して二年が過ぎた。
冬晴れの暖かな日だった。暖かな陽射しとは対照的な、冷たく乾いた風を受けた。ふと、故郷の山形は大雪の予報だったことを思い出した。駅の近くの歩道橋の上、風はビルの間を通り抜け、さらに鋭い冷たさを増していた。
東京の冬は乾いている。日本海側の冬は湿っている。湿っているばかりではなく、暗く陰気だ。特に山に囲まれた土地はそうだ。午後の4時を過ぎれば、周囲が次第に暗くなっていくのが分かる。
太陽が空に姿を見せることは少なかった。いつも固そうな雲が太陽をさえぎっていた。この固く厚い雲が土地の人々を閉じ込めているのだった。
そんな土地でさえ晴れる日はやはりあった。晴れた日の早朝はひどく寒かった。あらゆる防寒具も役に立つことはなかった。空は澄み切っている。動きを止めた水の分子が空中で凍り付いている。澄み切った空に太陽の陽射しが照る。水の分子たちが光に反射してキラキラと輝く。水の分子に当たらなかった陽射しは、地上の白い雪に到達する。雪は光を跳ね返す。
冬晴れの早朝はキラキラと、光に満たされるのだった。
七つの森のこっちのひとつが/水の中よりももっと明く/そしてたいへん巨いのに
「屈折率」宮沢賢治
光に満たされた土地は境界線を失う。光はひとつの空間のみにすべてを飲み込んでしまった。”水の中”のように光が透過する空間。空間は”水の中”のように光を透過させる。
幼い頃を思い出す、キラキラと光る空気に包まれたあの光は、体さえも透過していた、と。まるで、”水”そのものにでもなったかのように、光の分子に包まれ、空気と透明になったのだった。
足を止めて、深雪に足を踏み入れる。小さな用水路が雪で覆われていて、足を踏み入れると、中が空洞になっている。長靴を履いた足は用水路の水につかる。水の冷たさが長靴のゴムを通しても伝わる。体の半分が用水路に埋まる。いまや両足が用水路の水に触れている。冷たさが、余計に空を輝かした。視線の前には雪があった。予定などなかった。太陽が昇り、空気中の水の分子が動き始めるまで、何もしなくてもよい。何もしなくてもよいなら、何もしない。
しかし”わたくし”は曇り空へと向かわなければならなかった。”でこぼこの凍った道を踏み”歩かなければならなかった。歩き始める”わたくし”は透明な水から徐々に輪郭を生み出す。空間から”わたくし”が浮き彫りにされる。”わたくし”が”縮れた亜鉛の雲”へ向かい歩けば、”わたくし”は”わたくし”となり、光を透過させることのない、不純物となる。
人は不純物だ。何らかの束縛がある。輝く水ではない。人は光を透過させることは出来ない。光に満たされた空間に”わたくし”がいるに過ぎない。”わたくし”に照る光はその進路を変化させる。そしてまた、”わたくし”も体の向きを変える。
歩道橋の上で立ち止まりはしなかった。約束の時間が迫っている。そもそも歩道橋の上を歩く人々は、輝く太陽を見上げても立ち止まるものはいない。誰もが、”陰気な郵便脚夫”だった。キラキラと輝かなくともよい。不純物なのだ。自然を憧れ、焦がれ、そして、その心を裏切りながら”縮れた亜鉛の雲”へ向かう。