アナグマさんとマッチちゃん
縞田みやぎ
アナグマさんとマッチちゃん
アナグマさんは紳士です。
ちょっと白髪まじりの前髪を撫でつけて、茶のスーツの襟をきちんとしています。
マッチちゃんはお嬢さんです。
まだまだおちびさんなのですが、口は達者なのです。
「あたしったらなんてかわいそうなの!」
それがマッチちゃんの口癖なのでした。
アナグマさんとマッチちゃんは、表通りに面したアパートメントに、ペルシャ猫のフランシスと一緒に暮らしていました。
本棚の一段にゴブランの敷物を敷いた綺麗なお部屋が、マッチちゃんの住まいです。
マッチ箱には『橋の下火薬店』とラベルがありましたが、アナグマさんが絹のハンケチを敷いてくれたので、それはすてきな寝床なのでした。
天気の良い日には二人で散歩をします。
アナグマさんはフェルトのつばの帽子をかぶり、マッチちゃんはうさぎ毛のマフラを巻きます。
マッチちゃんはアナグマさんの上着のポケットに入り、上機嫌です。
アナグマさんが「ミスタ」と呼ばれるのが、マッチちゃんはお気に入りなのでした。
「アナグマのだんな、マッチのお嬢さん、ごきげんよう」
すれちがう人々に、2人は、上品にお辞儀をするのでした。
アナグマさんは毎日、炊事や洗濯、掃除をします。
朝はマッチちゃんよりも早く起きて、お湯を沸かします。
「メイドを雇うといいんだわ。殿方があくせくするのってみっともないわ」
マッチちゃんは寝巻きを脱ぎながら、毎日ぶつぶつと言います。
「私が好きでやっているからいいんだよ」
アナグマさんは静かに、ゆっくりとお茶を入れます。
毎晩眠る前には、マロー・ブルーのお茶を入れるのがアナグマさんの役目です。
カップにレモンを入れるのがマッチちゃんの役目です。
お茶を飲む2人の足元で、ごろごろいうのがフランシスの役目です。
ある朝のことでした。
マッチちゃんが起きると、カーテンはまだ閉まったままでした。
いつものようなお湯のしゅんしゅんいう音も、卵を焼く匂いもしません。
暖炉の火もおきのままなので、肌寒く、マッチちゃんは毛布を被って文句を言いました。
「アナグマさんたら、忘れん坊でお寝坊なんだわ。みっともないわ」
大きな声でしゃべっても、アナグマさんが起きてくる様子はありません。
マッチちゃんはカーディガンを羽織って、本棚を降りて、アナグマさんの寝室に向かいました。
「なおぅ、なおぅ」
朝のミルクがまだもらえないフランシスも、一緒に戸をノックします。
「アナグマさん、アナグマさん、朝なのよ。お寝坊はいけないのよ」
何度かとんとんと叩くと、やっと中からアナグマさんの声がしました。
「マッチちゃん、フランシス、おはよう」
部屋に入ると、やっぱりカーテンは閉まったままです。
ベッドの布団のこんもりとした山から、アナグマさんの声がします。
「風邪を引いてしまったようだよ」
「起きられないの」
「ああ、今日はこのまま寝ていることにするよ」
マッチちゃんは困ってしまいました。
「あたしたちのごはんはどうするの」
「お向かいのグラニーさんのところに行っておいで。私の分はかまわないから」
グラニーさんはがみがみやのおばさんで、いつも子どもを怒鳴りつけているので、マッチちゃんはあまり得意ではありません。
グラニーさんのうちの子犬のジャンも、よく吠えるので、フランシスはあまり得意ではありません。
「あたしってなんてかわいそうなの!」
マッチちゃんは何か文句を言おうとしたのですが、アナグマさんの喉がひゅうひゅうというのを聞いていると、なんだか黙ってしまいました。
「なおぅ、なおぅ」
フランシスも心配そうに鳴きます。
「あたしちゃんとできるわ!」
マッチちゃんは、アナグマさんの布団をぽんぽんと叩き、胸を張りました。
アナグマさんが家事をする様子は、いつだってよく見ているのです。
「あたしはフランシスよりよっぽどお利口だもの。ちゃんとできるわ」
ちょっと考えて、言いなおします。
「フランシスと一緒にやればいいのよ」
もうちょっと考えて、最後にマッチちゃんは言いました。
「ここの戸を開けておいて、そこからいろいろ教えてくれればいいのよ」
アナグマさんは枕の位置を直して、少し体を起こしました。
「いいよ。じゃあまず、カーテンを開けよう」
カーテンを開けるのは楽しい仕事でした。
マッチちゃんはフランシスの背中に乗って、窓のきわまで行きます。
そのままフランシスが伸びをするので、鼻のあたまから窓枠にぽんと飛び移ります。
それからあとはカーテンを引っ張って、窓枠を端まで走るのです。
端までいくと、またフランシスの背中に降ります。
マッチちゃんはおちびさんなので、フランシスも重くはありません。
「アナグマさんならきっと、フランシスはぺしゃんこだわ。あたしの方が上手よ」
マッチちゃんもフランシスも大得意です。
暖炉に火を入れるのは大変な仕事でした。
マッチちゃんもフランシスも、火は得意ではありません。
ベッドからアナグマさんが声をかけます。
「焚き付けを入れてから、石炭をくべるんだよ」
「だってあたし、燃えちまうわよう!」
マッチちゃんとフランシスは相談して、なんとかその仕事をやりとげました。
マッチちゃんがフランシスのしっぽに石炭を乗っけます。
フランシスはよいしょとしっぽを振るって、石炭を暖炉に放り込みます。
最後に古い新聞をぺんと上に乗せると、おきから小さく火が燃え移って、やがて炎になりました。
順番は逆になってしまいましたが、なんとか火はついたようです。
「ほうらね、あたしたち、何だって上手にできるのよ」
「なおぅ、なおぅ」
おなかのすいたフランシスが鳴きます。
マッチちゃんのおなかもぐぅぅと鳴ります。
探してみると、台所の流しの脇に、昨日のミルクの残りがありました。
「昨日、ミルクティーにしなくてよかったわ」
ミルクの壜は重たかったのですが、砥石にもたせかけて斜めにすると、やっとカップに注ぐことができました。
フランシスの青い花の皿にも注ぎます。
マッチちゃんは自分の背丈ほどもあるアナグマさんのカップを抱えて、アナグマさんの寝室に行きました。
「ほうらね、看病だってお手のものだわ」
マッチちゃんのカップは小さくて注ぎにくかったので、アナグマさんのカップから少しもらいました。
パン切りナイフってどうしてこんなに大きいのでしょう!
フランシスが持ち手を抱えて、マッチちゃんは反対側の刃先をつかまえました。
ぎこぎこと黒パンを切るのは大変でしたが、マッチちゃんはごきげんです。
「大きな木を切るってこういう感じよ。あたしたち、ちいちゃなきこりなんだわ」
アナグマさんのために特別に厚く一枚。
フランシスのために薄く一枚。
「あたしはこれで満腹よ」
マッチちゃんはフランシスのパンからひとかかえをちぎり取りました。
フランシスはミルク浸しの黒パンはそんなに好きではないので、少しふきげんです。
「あたしもマフィンの方がよかったわ。でもアナグマさんは忘れん坊だから、しょうがないの」
「ねえねえ、次は何をしたらいいの?」
アナグマさんはゆっくりとパンを食べ、パンくずを払いました。
「そうだなあ、ランチはまたパンとミルクで構わないけれど。晩には何かこさえないといけないね」
御飯を作る!
マッチちゃんはわくわくしました。
アナグマさんと一緒に市場に買い物に行くのが、マッチちゃんは大好きです。
アナグマさんが台所仕事をしているのを見ているのも大好きです。
じゃがいもやお肉がくるくると取り回されているうちに、みるみる御飯になっていくのです。
「グラニーさんのところに行っておいで。無理はするんじゃないよ」
「いいえ!いつだって一緒にいて見ているのですもの、あたしならきっと上手にできるわ」
フランシスも自信たっぷりに鳴きます。
昼下がりの市場は、人々で賑わっています。
フランシスは買い物のバスケットをくわえ、背中にマッチちゃんを乗せてゆうゆうと市場を歩きます。
お出かけなので、マッチちゃんはうさぎの毛のマフラをしています。
フランシスも特別に、首に綿のリボンをつけました。
いつもはアナグマさんのポケットに入っているので、今日は風景が違って見えます。
「やあマッチのお嬢さん、アナグマの旦那はどうしたんだい」
「やあフランシス、今日はお買い物の手伝いかい」
市場を行く人々も、驚いて声をかけます。
2人はとってもごきげんでした。
「あたしたち一人前ってことよね、ねえフランシス」
おがくずに埋もれた卵を、お店の人が掘り返すのを見るのがマッチちゃんは大好きです。
フランシスはお魚やさんに興味津々でしたが、マッチちゃんがリボンを引っ張っているので諦めました。
お豆のスープは風邪によいと聞いたことがあります。
「にんじんも入れたらきっとおいしいわ」
かごはどんどん重くなり、フランシスはよいしょと頑張っています。
2人で相談して、明日の朝ごはんのマフィンも買っていくことにしました。
牛乳は二日に一度配達がくるのを知っているので、買わなくても大丈夫です。
最後に、ベッドで寝ているアナグマさんのために、新聞を買いました。
これでアナグマさんが持たせてくれた銅貨はすっかりなくなってしまいました。
2人は意気揚々とアパートメントに帰ろうとしました。
「ねえフランシス、あの水溜りを飛び越えられる?」
「なぁお!」
フランシスはアパートメントの階段に向けて助走を始めます。
その時でした。
「わんわんっわんっ」
不意に犬に吠えかかられて、フランシスはびっくり!
マッチちゃんもバスケットも放り出して、アパートメントの扉の中に飛び込んでいってしまいました。
放り出されたマッチちゃんは、くるくると宙を舞い、水溜りに落ちてしまいました。
お気に入りのうさぎのマフラも、買い物のバスケットもびしょぬれの泥んこです。
「あたしフランシスに怒鳴らなくちゃいけない!」
マッチちゃんは水溜りの真ん中で、じたばたと足を振り回しました。
「あたしいっぱい、悪態をついてやるんだ!くちぎたなくののしってやるんだ!」
しかし、何度呼んでもフランシスは帰ってきません。
「あたしってなんてかわいそうなの」
マッチちゃんはスカートの裾をぎゅうっと絞って、バスケットを起こそうとしました。
食べ物をたくさん詰め込んだバスケットは重く、おちびさんのマッチちゃんではうんともすんとも動かせません。
「あたし、あたしは、世界でいっとうかわいそうな、みじめなマッチなんだわ」
ついにマッチちゃんは、ぽろぽろぽろぽろ泣き始めました。
「まあまあ、なんてことだろうね」
マッチちゃんを抱き上げたのは、やさしい大きな手でした。
涙でべしょべしょの顔を、綿のハンカチで拭いてくれたのは、なんとグラニーさんでした。
子犬のジャンも不思議そうな顔をして覗き込んでいます。
「ミスタ・アナグマはどうしたんだね」
グラニーさんはバスケットを取り上げて、手際よく中身の無事を確かめ、マッチちゃんをコートのポケットに入れてくれました。
マッチちゃんはというと、グラニーさんが階段をとんとんと上っていくあいだ、ポケットの中で、ハンカチを抱えてずっと鼻を鳴らしていたのでした。
アナグマさんの家についてからのグラニーさんの活躍ときたら、それはそれはたいしたものでした。
さっさと暖炉の火を焚き直し、お湯を沸かし、びしょぬれのマッチちゃんをたらいのお風呂に入れてくれました。
それからふわふわのタオルでマッチちゃんを丹念に拭き、ワンピースを着せてくれました。
それからミルクをあたためて卵を溶かし、アナグマさんの暖かな飲み物をこさえました。
どれもこれも、普段のアナグマさんの三倍の手際のよさで、マッチちゃんはびっくりしました。
「風邪はひきはじめが肝心なんだよ。ぽかぽかにあっためてさあ寝た寝た!」
アナグマさんは布団の足元に暖かな湯たんぽを入れてもらい、安心して、眠りはじめました。
「さあさ、あんたたちはあたしの家においで。人様の台所は使いにくくてかなわないからね」
フランシスはマッチちゃんに怒られるので、アナグマさんのベッドの下にもぐりこんで隠れていたのですが、グラニーさんに見つかって一緒に抱かれて連れて行かれました。
マッチちゃんとフランシスはグラニーさんを苦手だと思っていたので、グラニーさんのおうちに来るのは初めてでした。
グラニーさんのおうちは、紅茶とお菓子のいいにおいがしました。
8つの女の子,7つと2つの男の子が、暖炉の前でおままごとをしています。
ゆりかごの中で、このあいだ生まれた赤ちゃんが寝息を立てています。
赤ちゃんが、ピンクのうさぎのおしゃぶりを握っているのを見て、マッチちゃんは嬉しくなりました。
「アナグマさんが贈ったやつだわ。あたし選んだんだわ」
「いっとうお気に入りでね、離しゃしないんだよ」
それから、みんなで午後のお茶を飲みました。
「このクッキーはあたしが焼いたの」
8つのミニーが得意な顔をするので、マッチちゃんも負けません。
「あたし、晩御飯だってこさえられるんだから!」
マッチちゃんはエプロンを持っていなかったので、ミニーのお人形のお古のエプロンを貰いました。
ミニーやグラニーさんとお揃いの、白いエプロンです。
マッチちゃんとフランシスが買ってきた材料と、グラニーさんのおうちにあった材料とを合わせて、豆とじゃがいもとにんじんと香菜のたっぷり入った、あたたかなスープを作りました。
黒パンもにんにくバターを塗ってフライパンで焼いてやると、さくさくとしておいしそうです。
マッチちゃんはピーラーを抱えて、にんじんの皮を剥きました。
上に乗ってよいしょと滑らせると、面白いように皮が剥けます。
「これはあたしにぴったりの仕事だわ!」
マッチちゃんは大得意。
フランシスはジャンと一緒に丸まって、暖炉の前でお昼寝をしています。
グラニーさんのおうちの分とはんぶんこをしたスープとパンを、3人の子どもたちが、アナグマさんの家まで運んでくれました。
アナグマさんはガウンを来たままでしたが、もうだいぶ体調もよいようでした。
マッチちゃんはフランシスと一緒に石炭を暖炉に放り込み、食事のお皿を並べました。
「やあ、今日はずいぶんとがんばったんだね」
アナグマさんは、マッチちゃんの白いエプロン姿に目を細めます。
「無理をさせてしまったなら申し訳なかったね」
スープはとてもいい匂い、お部屋はぽかぽか暖かく、とてもゆったりとした気持ちです。
「ううん、ううん。無理なんてこと少しもなかったわ。とっても素敵な一日だったわ」
「アナグマさんよりも上手にできること、あたしいっぱいあるって知っていた?
あたしはね、世界でいっとう、すてきなマッチなんだから!」
なぁお、なぁおとフランシスもうなずきます。
アナグマさんはスープをひとくち飲んで、にっこりとわらいました。
「うん、うん。私はね、よく知っているよ」
眠る前にはいつものように、みんなでマロー・ブルーのお茶を飲みました。
マッチちゃんもアナグマさんもフランシスもそれぞれの役目をつとめて、とても、しあわせでした。