詩人は実のところ職業ではない。農民が作物を売って生活費を得るように、労働者が労力の対価に賃金を稼ぐように、詩を売って生活するわけではない。そんな人間は少なくとも私の周囲にはいない。どこかにいるのかもしれないが見たことがない。もっとも同時代の詩人たちとほとんど交渉はないが。しかし常識的に考えればすぐわかることだ。純粋に詩作品だけを持続的に販売して、糊口を凌げる者などめったにいないだろうと。そしてたぶん歴史上の詩人たちもそうだったのだろう。
では実際かれらはカネにならぬ詩をかく一方で、どんな職業に就いていたのだろうか。それが知りたい。だから学習することにした。その場合、資料を参考に詩人の職歴を箇条書きにするだけでもよかったのだが、それではあまりに芸がないので、ついでに近代詩の歴史をたどることにした。流通している詩史のテキストを読んでまとめてみよう。軽いノリでそう思ったのが、運のツキだった。私はまたしても無間地獄の扉をあけてしまったようだ。
つまりこれも、いつ終わるとも知れぬシリーズものである。
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●<軍歌>抜刀隊/陸軍分列行進曲(全番歌詞付き)
http://www.youtube.com/watch?v=LkBIZzewlgA&feature=related
「新体詩抄」は明治15年(1882)に、外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎の連名で発行された。維新以後の急激な西洋化の波のなかで誕生した近代詩の、ひいては現代詩につながる日本の自由詩の嚆矢とされていて、明治の詩史は必ずといっていいほど、この本からはじめられる。もちろん、それに先行した新時代の作品群も当然のようにあった。たとえば賛美歌の訳詞や小学校唱歌の詞等。それなのに、なぜ「新体詩抄」が嚆矢とされているのかといえば、ひとえにその序文のマニフェストによるところが大きい。すなわち明治のうたは明治の日本語でうたうこと、新しい時代の意識を日常の言葉で表現することを宣言したものだったからで、ちょっと先に言った者勝ちという感じはある。訳詩14篇、創作詩5篇という構成で、どちらかというと英米の詩の紹介と啓蒙の書である。そのなかから井上哲次郎の創作詩「抜刀隊」を冒頭に引用させてもらった。のちに陸軍軍楽隊のフランス人教師シャルル・ルルーが曲をつけ、陸軍分列行進曲として歌われた。井上はそれをとても喜んだという。その時代の雰囲気と「新体詩抄」の性格を想像する手がかりとなる作品ではある。
●初音ミクにも歌ってもらった。
http://www.youtube.com/watch?v=ivdlIvP7vB0&feature=related
外山正一(1848〜1900)は、若くして英学を修め江戸幕府の留学生としてイギリスへ渡ったが、明治維新によって頓挫。帰国後、外務省弁務少記になり、森有札に随行しアメリカに赴いたりするも、向学の志高く、辞職して留学。ミシガン大学において哲学と化学を修める。その後、新生東京大学の教授となり、東京大学総長、文部大臣などをつとめた。
矢田部良吉(1851〜1900)は、漢学の後、英語をまなんだ。コーネル大学を卒業し、東京教育博物館長、東京盲唖学校長、音楽学校長などをつとめ、東京大学ができると理学部の植物学教授として就任した。ローマ字の採用を説いたり、当時まだ一般的でなかった海水浴を広めたりした。
井上哲次郎(1856〜1944)は、東京大学哲学科を卒業、ドイツに留学後、教授となる。国家主義者としてキリスト教を排撃。国民道徳を主張し、教育勅語にも関係した。
というわけで、この三人のシノギの分類は「学校の先生」。
それも国策に関与したエリートたちだったが、詩人というよりも啓蒙家のイメージがつよい。
その昔、日本の国に大学がひとつしかなかった頃の話である。
●「新体詩抄」全文
http://www.j-texts.com/meiji/shintai.html
※参考文献は、このシリーズの最後に併記します。