ガラスコップの水滴に写る風景について
beebee



禅問答ではないですが、頭に思い浮かんだ言葉をそのまま使いたいと思いました。『そこにあり、ここにある』といった表現です。自分のありようがそんな単純な言葉で表現できたら面白いと思いました。それで電子メモに言葉を書き留めて、定期的に眺めたりしていました。

そんな時、行きつけの喫茶店で最初に出されるコップの水滴をみて、この詩ができました。水滴に映る姿に幾つもの世界を見る。そんな詩が書けないかと思いついたのです。

自分の今の有り様は、過去の依って立つところの背景というか、流れがあってある。突然何も無しに今の自分が在る訳ではない。ただそこにあるというのは難しいと思います。

『そこに在る』ということ、実存とはそんなベクトルとして在ることだと考えています。方向性を持った進む力として僕たちはいる。

今の価値観、想いもなるようになった理由があるわけで、今の自分は今あるようにある。ひとつの必然だと思います。でも、違う自分も色々あっていい。

進む道の中で選択に迷うことは色々あって、その時々は最適の選択をしてきたつもりだけれど、でも、違う選択があっても良かった。また違う自分が在ったような気がする。そう思いませんか?

そこにも、ここにも。違う自分があっていい。それを水滴に写る姿になぞらえました。幸せはそこにあって、ここにある。不幸もしかり。

なかなか、この詩を読んでそこまで理解するのを求めるのは難しいと思います。それで、コメントを詩の後に追記しています。今回もそのまま載せますので読んでみてください。想いは伝わったでしょうか?

やはり、それを情景描写するにはまだ私の力がなかった次第です。これからも色々、実験的な手法をやってみたいと思っています。




ガラスコップの水滴


ガラスコップの水滴を見ていた。
ひとつひとつに映る宇宙。

そこにいることの幸せと、
ここにいることの不幸を想う。

わたしはそこにいて、
わたしはここにいる。
わたしはむこうにいるかな?

それはガラスコップの水滴に映った、
それぞれの自分の姿。

実存することを想う。



**
ただそこにあるというのは難しい、
今の自分は今あるようにあるわけで、
ひとつの必然だと思います。

でも、違う自分も在ったような気がする。
そこにも、ここにも。違う自分があっていい。

実存とはそんなベクトルとして在ることだと、
考えています。


散文(批評随筆小説等) ガラスコップの水滴に写る風景について Copyright beebee 2008-04-01 00:41:17
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