『狐憑き』
しめじ
妻が狐憑きにあって家を出た。かれこれ二ヶ月連絡がない。昨年の十一月に庭先に血まみれの狐が迷い込んできた。妻はこれを良く介抱したのだが甲斐無く死んでしまったのだ。そのときに憑かれたのであろう。
思えば妻は誰にでも優しい心を持っていた女だった。その分安請け合いをよくする女であった。傷ついた狐を見て彼女の心が揺れ動かぬはずがなかった。
「自然の摂理だ。そのままにしてお遣りなさい」
私はご託を並べて狐を家に入れないように妻を諭した。しかし、妻は頑なに首を縦に振らず血まみれの狐を抱いたまま私を見つめていた。涼しい風に鈴の音。晩夏にしまい忘れた風鈴の音に狐の耳がぴんと立った。
「勝手にしなさい」そう言って私は書斎に引っ込んだ。
狐を風呂場へ運び入れ、妻は襦袢が汚れるのもかまわずに丁寧に狐の身体を洗い血を流した。お湯が身体に浴びせられる度にびくんと背を反らせる狐。その姿を見て妻は満足そうに微笑んだ。終いには裸になって湯船に狐と一緒に浸かっていた。
狐は二晩生きた。白いあて布を巻かれた狐は歩くことはできなかったが、餌はよく食べた。牛乳を湧かした物に小麦粉を少し溶かしてやったものを妻が匙で飲ませると、嬉しそうに口を開けて飲んだ。私は何とかという病気が怖かったので触るどころか近寄りもしなかった。狐も私に近寄ろうとはしなかった。ただ細長い顔をこちらに向けてひどく警戒しているようだった。
狐を慈しむように妻は他人には優しく尽くした。しかし私には底の浅い空虚な優しさしかくれなかった。
「あなたのために今度お料理をこしらえますわ」
「あなたのために今度お手紙をしたためますわ」
「あなたのために今度プレゼントをご用意しますわ」
「あたなのために今度……」
と何度も約束を交わしたがそれが果たされることは一度もなかった。普段家にいる私よりも出先で会う友人や不意のお客さんの方が話していて面白いのだろう。実際彼女は外出している時にはよく笑った。
家の中でももちろん笑う。妻は終始笑顔を絶やさない性格だった。しかし家での笑みは外の笑み方と違った。いつも今にも泣き出しそうな瞳で笑う。私の目をじっと見つめて、瞳を潤ませ笑うのだ。私にはその意味が分からなかった。
狐の最期はあっけなかった。前足を突っ張るようにして全身を痙攣させ、やがて静かに床に伏した。そしてそのまま動かなくなった。妻は立ったまま動かない狐をずっと見下ろしていた。声を殺して泣いていた。
妻はひとしきり泣くと私を見上げた。涙で濡れた白い頬を親指で撫でてやる。妻の長い髪は獣の匂いを発していた。はっとして顔を見ると、妻はそれまで見たことがないほど美しい顔で笑っていた。私の手を引くとそのまま床に倒れ込んだ。朱色の帯紐がほどける。妻は熱い息を吐いた。
「どうにでもなさってください」
私はその夜狂ったように妻を抱いた。
その日から妻はおかしくなった。
妻は軒先に吊してあった風鈴に手を伸ばすと、それを外して人差し指にくるくると巻き付けた。そして縁側に立ってぼうっと立っていた。
「何をしているんだい」
「風を待っているのです。きれいな音が鳴ります」
妻は指先に吊した風鈴をかざして風を待った。冷たい風が通りすぎて涼やかな音が鳴る。その風鈴は私と妻が始めて浅草に出かけた際に一緒に選んだ物だった。瑠璃ガラスの一品物である。指先にそれを垂らしたまま妻は惚けたように風待ちをした。私が「冷たい風しか吹かないよ」と何度も忠告したが、妻は襦袢姿に裸足という体で縁側にぼうっと立って風を待っていた。
案の定妻は次の日熱を出して寝込んでしまった。床に入っている間もずっと風鈴を握って離さなかった。
熱は一向に引く気配がなかった。それどころかときどき咳き込むようになっていて、すぐにお医者を呼んだ。お医者は「流行病ですから心配いりません。暖かくして栄養をよくおとりください」と言って帰った。言われたとおりに部屋を暖かくしてご飯を食べさせていたがやはりよくならない。一時はサナトリウムに移そうかとも思ったが、そこまで大仰にするほどのことではないと妻に諭されやめた。
妻が三丁目の横丁にある「峯家」の出し巻き卵を食べたいと言っていたので、街へ出たついでに買って帰ってやった。新聞紙に包んで懐にしまう。熱をできるだけ失わないように肌着と着物の間に挟んで家路を急いだ。
「冷めないようにと思ってね懐に入れてきたのだよ」
そう言って私は懐から包みを出して妻に差し出す。包みを受け取った妻はちょっとの間それを手にとって眺めた後、いきなり庭先に向かって包みを投げた。庭の赤土の上で包みの中身が露呈する。まだ湯気の立っている出し巻き卵は猫の糞のように無様に見えた。やがてカラスが飛んできて庭に落ちた玉子焼きをさらっていった。妻はそれを見て終始笑っていた。
その晩妻が出奔した。
妻が狐憑にあって家を出てから今日でちょうど二ヶ月。その間私はずっと家の中で待っていた。ひょんなときに戻ってくるやも知れん。それに荷物だって部屋にある。病気を悪くしていないか心配だった。幸いなことに今年の冬は暖冬であった。庭に植えた紅梅が既に満開だった。
振り返ると見知らぬ男が妻の部屋に立っているのが見えた。男は箪笥を開いてなにやらがさがさと動いている。近づいてみると妻の肌着や着物を風呂敷に詰めているのが分かった。
私はその男を反射的に妻の弟だと思った。実際妻には弟がいると聞いたことがある。彼は外国に行商に出ているそうで婚礼の席にも姿を見せなかった。今日が始めての対面であった。
「妻は君のところにいるのかな」
男は私の言葉を無視して作業を続ける。冬だというのに部屋の中は蒸し暑く、ぬるりと脇の下を汗が流れた。
「妻は元気かな」
荷造りを終えた男が顔を上げて私を見る。黒目がちの瞳。どこかで見たことがあるなと思った。
「元気ですよ、おかげさまでね」
男はそう言って口の端を持ち上げて笑った。なぜだか分からないが胸の中が熱くなった。ちょうど言われもない罪をなすり付けられたときのような気持ちだった。
「それではごきげんよう」
男は私を見て笑った。今度の笑いはとても美しい笑顔だった。呆然とする私を置いて彼は苔むした門をくぐり消えていった。
あっと気付いて私は男を追いかけた。あれは間男だ。妻は男と逃げたのだ。家の前のつづら折りになった坂道に男の姿はどこにも見当たらない。やるせない気持ちで縁側に戻り腰掛ける。夕焼けが辺りを包んでいた。軒に吊した風鈴が鳴った。私は思いついたように風鈴を外すと、思い切り地面にたたきつけた。ばりんという音がして夕日が真っ二つに裂けた。
途端に屋敷が消えて、私はだだっ広い野原に仰向けになって寝ていた。
枯葉の上に粉々になった風鈴の欠片が赤い光を止めて鈍く光っている。カラスが西へ飛んでいく。仰向けになったままぼんやりと空を眺めていた。夜がやってくる。