音楽的詩論 一限目 「君が代」
風見鶏

 1999年、アルバム『冬の十字架』に収録された忌野清志郎の『君が代』は、ユニバーサルミュージックから発売禁止処分を受け、結局インディーズレーベルのSWIM RECORDSから発売される事になった。

 『君が代』という国歌を取り巻く状況は現在芳しいものではない。
 戦後、この国歌は天皇を賛美する軍国主義の象徴であるとして大きな批判を受けたし、それが現在の左翼主義的な不起立・不斉唱などの問題に繋がっていると言っても良いだろう。
 最近では、ある中学校の卒業式において一人を除いた生徒全員が国歌において不起立・不斉唱をするなどという異常な事態にまで発展してきている。

 これに対しては色々な意見があるだろうが、個人的には教員がやる分には構わないと思う。
 あらゆる主義・主張が存在する中で、個人の思想というものは限りなく自由であるべきだと信じているし、国歌を歌わないという事が教員の責務の放棄であるという自覚があり、それを踏まえて尚主張したい事があるのであれば勝手にやっていれば良いと思う。
 ただ、子供を巻き込んで事態を拡大させようという姿勢は、これまた色々な意見があるだろうが自分は賛同できない。
 というのも、たかだか14・15の人間的に幼い子供に『君が代』の経緯を語れば、多感な時期である子供達がそれに反発しようという動きになるのは当然だし、言ってしまえば自分達の主張のために子供を利用する悪質な扇動以外のなにものでもないからだ。

 だいぶ話が逸れてしまったが、こんな感じで国歌の立ち位置は戦後微妙な立場にある。
最も、多くの人にとって国歌へのイメージは好きでも嫌いでもなく、どうでも良いだと思うが。

 さて、そんな背景もあいまって忌野清志郎の『君が代』は反響を呼んだ。
 パンクロックのバンドが国歌をアレンジして演奏するという事事態は実は珍しい事ではない。
 彼らのそうした動きは、反社会的なものとして扱われるし、事実そういったものでもある。
 保守的な人間には嫌われたし、反体制的な人間には無意味に迎合された。
 (例えば清志郎の『君が代』は、売国奴と名高い筑紫哲也に意味も無く絶賛されていた。)

 ロックが右か左かと問われれば、それは間違いなく左だし、パンクロックはアナキズムにも通じる。
 ただ、そんな中で清志郎の『君が代』を、単なる反体制的な、或いは反国家的な思想と切り捨ててしまうのは、余りにも簡単で、そして余りにも安易な事であると言わざるをえない。
 忌野清志郎の切り開いたパンクロックの舞台は、情けないほどの自己愛と自己肯定の上に成り立っているし、だからこそ彼は多くの人からリスペクトされ、そして愛されている。
 そんな彼が安っぽい体制批判をして愉悦に浸るような人物かと言われれば答えはNOだ。

 君が代の詩を振り返る

――君が代は 千代に八千代に
――細石の 巌となりて 苔の生すまで

 「君」は古語において「単純な二人称」「君主」の二つの意味がある。
 「君」を天皇として扱うなら、確かに「あなたの世はずっと続きますよ^^」という天皇賛美でしかない。
 しかし、「君」を「君主」ではなく「単なる二人称」にしたならばその意味は大きく変わってくる。

 そもそも君が代は国歌として成立する以前は一介の和歌であった事も注視するべきだろう。
 芸能として存在した和歌において、折によって多重的な解釈ができるよう作られたと考える事は極自然な事であり、そこに一元的な解釈を加えること事態がそもそもナンセンスである。
 第一、古今集の賀歌には聖代を寿ぐ意識よりも、長寿を祝い、祈る意識のほうが遥かに強い。
 なにより、マスコミュニケーションの発達していないこの当時の民衆にとって、君主とは手の届かない、想像も付かない、雲の上の神や大昔の伝説、おとぎ話に近い概念であった事も注目するべきで、これを踏まえると、当時の『君が代』における「君の長生」を祈る歌詞は、民衆にとって忠誠心や尊王とは切り離された「祝福」に近い意味で捉えられていたと考えられるだろう。

 それを踏まえた上で清志郎の『君が代』を振り返る。

――俺の目の前にいる君がよ
――今日よ大阪城ホールによ
――来てくれてよ盛り上がってくれてよ
――俺がよ君がよ大好きだぜ

――大阪城ホール演奏中のMCより抜粋

 清志郎の『君が代』が曲を卑下するだけのアレンジであったのならば、こんな言葉は出ないだろう。
 演奏中に清志郎は『君がよ』という言葉をオーディエンスを指差して言い、『大好きだぜ』という言葉で締めた。
 だからこれは国歌に対する中傷でも卑下でも無く、純粋な和歌『君が代』のカヴァーなのだ。
 清志郎は左翼的思想とは無縁に『君が代』本来の意義の一つを掘り返したに過ぎない。



 少なくとも明治政府の成立以降、国歌として制定された『君が代』の中には天皇を賛美する意義が多分に含まれているのは事実で、軍国主義の体制下に利用された象徴である事も事実ではあるだろう。
 ただ、本来この歌が愛すべき人の長生を願い、繁栄と平和を祈る曲であったという側面がある事もまた事実だ。

 だから、必要以上にナショナリズムを煽って愛国心を掻き立てる必要は無いし、必要以上に軍国主義の、或いはカルト的な天皇崇拝の象徴として毛嫌いする必要も無い。後は、自分で考えて判断すれば良い。

 義務教育を終えて、高校も卒業した今となっては再びこの曲を歌う機会があるかどうかはわからない。
 それでも、いずれまたこの曲を歌う事があるとするならば、その時は玉座で踏ん反り返ってる誰かのためではなく、喜びを分かち合える誰かのためにこの曲を歌おうと思う。

http://www.youtube.com/watch?v=UwodtldRCuQ&feature=related
著作権? なにそれ美味しいの?


散文(批評随筆小説等) 音楽的詩論 一限目 「君が代」 Copyright 風見鶏 2008-03-30 00:56:13
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