夏野雨論 〜撃ち抜くのは、つよいことばなんかじゃないよ〜 
umineko

先日、とある催しで、夏野雨さんという方のリーディングを聞く機会があった。

普段ネット上のテキストでしかお会いしたことのない人が、実際にしゃべったり、うごいたり、はにかんだりしている様を見るのは、ひどく新鮮だ。夏野さんの作品は以前から好きでよく読んでいたのだけれど、声で聞く作品はまたそれと違っていた。


  くちびるを寄せて凍えた熱と恋今撃ち砕け春の弾丸


冒頭で彼女がうたったのは、「春の弾丸」という作品の1フレーズ。そして、そのあとリーディングに選んだのは、彼女の詩集「みずのうつわ」に載せられている、「置手紙」という作品。

  ぱしん
  ぱしん
  耳もとで
  銀の弾丸がかすめとぶ
             「置手紙」


小さな動物である彼女の内部から放たれる、弾丸ということば。押し付けでも計算でもない、しかし確かでつよいベクトル。あるいは夏野さんが屈強なタフガイであったなら、もっと違った意味を持つはずだ。ことばが、声を得て広がる意味を持つ瞬間。その瞬間に立ち会える幸福。

ことばは生き物だ。私たちは、意味を伝えるために、ことばを投げる。そして、多くの場合、間違えていく。ことばは生き物だから、自分でほろほろとどこかに行ってしまう。みち草をしたり、川土手でぼんやり空なんかみてる。

彼女の中にすむ弾丸は、どんなスピードなんだろう。じつは、それすらわからないのだ。たとえば、逢いたい、と告げる。それはどんな強さなのか。フェイクなのか。だめもとで、消えていってもいいように、命綱は握ったままか。それとも。それとも。

詩を書くということ。詩を読むということ。

私たちは伝えられない。
ただ、読み手の中に、何かのさざ波が、たちますように。

何年もたって、確認したくなる時は、ありませんか?あの時、本当に好きだったの?とかね。
確認する。ことばの意味、他愛もないおしゃべりとか、ふざけて叩いた肩の確かさ。とか。
ことばは伝えない。会話の半分は幻想だから。


夏野さんは生きている小動物て、けっこういたずらな瞳の持ち主で、どうやらお芝居なんかもしているらしいのだが、それらはおいおい。

  君の郵便受けの中にそっと
  桜を一枚いれておくよ
  長い手紙になりそうだから
  小さな箱には
  とてもしまっておけないから

             「置手紙」


詩を書くということ。
ことばひとつ。配置する、アイテムも接続詞も、すべてその作者のものとして。

問われる。
たとえば銀という色の質量。郵便受けという風景の確かさ。
二重にも三重にも深く、私たちは、内部に眠る声を聞く。くすぐられ、扉を開ける。


おそらく。
詩は、何かを励起させる触媒みたいなものなのだろう。それをあやつる詩人たちは、祈祷師や霊媒師に近いのかもしれないな。

(やれやれ。かなわないや。)

ぺこり、とマイクの前でおじぎをする小動物を見やりながら。
私はちいさく。嫉妬している。





夏野雨さん http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=5156
春の弾丸 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=150050

 
 
 


散文(批評随筆小説等) 夏野雨論 〜撃ち抜くのは、つよいことばなんかじゃないよ〜  Copyright umineko 2008-03-23 07:16:49
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