花は桜木と申しますが
亜樹

 TVなんかをみていると、どうも生き物の価値と言うのは、賢さだとか優しさだとか可愛さだとか美しさだとか、そういったものであるらしい。
けれども私の短い生で、今までであった生き物の中、最も尊いと思えたものは、鯨でもチンパンジーでもなかった。
 それは岡山の北部の数少ない観光名所で、名を醍醐桜という。
 その名の通り、かの後醍醐天皇が、元弘2年隠岐配流の際、この桜を見て賞賛したといわれる由緒正しき古木で、目通り7.1m、根本周囲9.2m、枝張り東西南北20m、樹高18m、種類はアズマヒガンというヒガンザクラの一種で、昭和47年12月岡山県の天然記念物に指定されたらしい。樹齢は700〜1000年。いまだ立派に花を咲かす。
 けれども、私がその樹を見に行ったのは3月半ばのまだ寒い時期だった。花芽はつけていたものの、1輪たりとも咲いていない。そのごつごつした枝ばかりが目立ち、古くなった枝が折れないようにと人間が施した鉄製の支えや、その幹の巨大なうろに流し込まれたコンクリートもなまなましく露出していた。
 それはあたかも病室でコードにつながれ、強制的に呼吸をさせられ心臓を動かされる病人の様相をかもし出していて、近所の神社の裏で注連縄を回されている銀杏の方が、よっぽど生気に満ち、大木の神々しさをまとっているように感じられた。
 しかし、その桜のごつごつした黄土色の幹の脇から、若々しい緑色をした枝が伸びているのに、不意に私は気づいたのだ。
 恐るべきことに、その桜はもはや自らの体重さえ自分で支えられず、その四方に伸ばした枝の処理などとうの昔に放棄して、人間様の世話がなければすぐさま朽ち果ててしまいそうなそんな様相で、春めいてきた空に向かって、新芽を伸ばしていた。

 ――おい、こいつ。まだ生きる気だぜ?

 その日、20年にも満たない人生で、既に生きることに倦んでいた私には、その緑色の意地汚さはひどく好ましく映った。

 人の手を煩わせながら、あの桜は今年も咲くらしい。
 
 

 


散文(批評随筆小説等) 花は桜木と申しますが Copyright 亜樹 2008-03-20 22:49:48
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