タイピストとスタイリスト
m.qyi

タイピストとスタイリスト


僕は詩みたいなもんはなんか個人的だなあと思う。じゃあ、僕の思っているような詩の宿命として、個人的だということがあるけれど、それはどういうことなんだろうか。僕がこういうことが気になるのは二つ理由がある。一つは、他の方々の言明に、「詩は、人が鑑賞できるレベル、水準を持てなければ、芸術作品じゃあない。」とか「友達同士で馴れ合っているのはよくない。」とか、そのような言明をよく聞く。もう一つは、「発表というのは、表現の一部か」という疑問。 後者から、まずちょっと、考えていくと、「詩を書いて、それ以上何がある。」と僕は思っていた。僕は経験上、詩的なイマジネーションとか印象が詩ではないということはよく判る。イメージと作品には大きな隔たりがあるし、イメージが作品なしであるかどうかは非常に疑わしいのだ。だから、詩人は詩を書けなくちゃいけない、詩は詩作品のほうで、詩人ではないというのは僕には厳然たる事実だ。これが表現という行為だと思っていた。だから、それ以上に、発表というような謂わば社会行為に意味があるとはどうしても思えなかった。僕がいつも出す例に、ルーブルがある。あそこには、時代の評価に耐えたどこをどう叩いても名作であるというものが並べてある。だから、コンテムポラリーな作品はない。しかし、それは、同時代の社会に無視された作品の見本市でもあるのだ。詩について、当時の僕は、せいぜい非常にミクロな分析をして、言語というのは社会性をどうしても伴うものであるから、発表という行為が表現の延長であると言わざるを得ないだろうといったような非常に煮え切らない態度だった。だから、ある意味で、自分自身には腑に落ちないところがあった。このなんともいいかげんな態度が僕の詩を作っていると思う。だから、僕の詩がもっている一種の誠実さはこのいいかげんさの一面でもある。ここで話したいのはこの問題だが、この問題には後でもどろう。

さて、先の理由の前者について、つまり、「詩は、人が鑑賞できるレベル、水準を持てなければ、芸術作品じゃあない。」とか「友達同士で馴れ合っているのはよくない。」とか、或は類似の他者の言明について考えてみよう。まず、こういうことを言う人というのは大体において非常に真面目で誠実な方が多く、僕は敬服はする。しかし、今、この点について、僕は意見を説くというのではなく僕の気分、謂わば僕の好みを話すことでこの問題を考えてみたい。だから、聞きたくないよという方は聞き流してください。雰囲気を話している。僕はちっちゃなマガジンをやっていて、それに原稿を寄せていただいた方が、締め切りに間に合わずもう一週間伸ばしてくれという、そんなことは僕はいっこうに構わないので、来週の X 曜日までではどうですかとお返事をすると、その頃原稿を添付したメイルが来て、「いいかどうかわからないが、これが今の私です。」というような内容の添え書きがあった。上記の言い方を踏襲すれば、当人がいいとも思わないものが他人が読めるかと言う他ない。僕は作者の意志を尊重する、こういう物は絶対駄作だ。でも、その絶対の駄作の中にどんなに言われても消せないラインがあるというのだから、そこが詩だろうと思うのである。僕がどう思うか関係ないだろうと。つまり、だから、こういう駄作の詩がある。

しかし、詩でない名文もあるだろう。でも、僕は詩を読みたいのだし、書きたいのだから、僕にはまあ名文より詩のほうがありがたい。ある全国に販路を持つ雑誌の編集長サンとお話したことがあるが、その雑誌のある賞のある選考委員はある詩人で非常に真面目な人で、他の選考委員の方の賛成があってもなかなかうんと言わない、どうしてもこれを受賞させるようなら、このラインを変えろという信念を持っているというような話だったが、帰郷したサンチョパンサの詩人のエッセイの中にあったが、ソビエトの捕虜収容所ではこう言ったらしい。もっと人間的に話そう、と。彼の友人の答えは、あなたが人間であれば、私は人間ではない。私が人間であれば、あなたは人間ではない。 生活詩であると、そんなちょっとつらそうな感じが、特に、出やすいんじゃないかと思うのだ。

今度は「馴れ合い」のほうだが、「馴れ合わない」奴らが寄り集まるとまでいわないまでも、言葉でも交わし合ったら、それは、馴れ合っていないのか、馴れ合っているのか。ボクはりっぱななれあいだとおもうよ。僕が今話しているのは、一般論として話しているということをお断りしたい。僕がこういう言い方というか態度をするのは、そういう馴れ合いじゃない人の集まりの方が多分にセクト化するじゃないかという現実論があるけれど、それより、こんな言い方は、僕のチンピラ根性が大きく働いている。チンピラ根性の説明をする前に、一言言及すれば、こんなチンピラ根性とはほど遠く、謂わばトホホの心で、演出とか社会問題を考えている人がいて、僕なりに一生懸命に読んだ。それはさておき、馴れ合っても馴れ合わなくても馴れ合いと言うのなら、馴れ合っていいのか。そんな疑問が残るだろう。チンピラ根性と言ったのは、こんな答えられない問題の口実にチンピラでいるというのは居直るという意味だから。つまり、僕だ。しかし、いくら誠実だからといっても(これは僕の個人的な理解に過ぎないが)そんな堅気にしても心はトホホだろう。このトホホもつらさの一種かもしれない。だから、僕みたいなキンピラは馴れ合いなのだ。他人はどうかは知らないよ。もう壊された三里屯のバー街に“純情少女“という一番安いトイレの横のバーがあり、英訳を見たら、ピュ−ア・ガールでバージンじゃねえよなあと思ったことがある。金持ちでもないだろう。このバーみたいにさ、純情なんだろう。

このような上記の二つの僕の気分は、実は、言いかけた問題に対する僕のあいまいさの気分の反映だ。読者はこんなくだらない個人的な妄想につき合わされるのはかなわないだろうから、はしょって言うが、「発表というのは表現の延長か、乃至は表現そのものか」という問いがあるとしたら、僕は、「発表というのは表現そのものだ」と答えるべきかなと今は思う。「かな」がちょっと情けないけれど。僕の理屈はこうだ。(それに限る必要はないが、一応、言葉を主体にした)創作というのは、区分けだろう。区分けの社会的な体系が言葉であるから、区分けは一つのルールに基づいて行われるが、この区分けが固定しているわけではないとすると、そうではないと言葉は変化生成できないのでここでは歴史的事実としてそう仮定すれば(もちろんそれについてもモデルに頼って説明もできるんだろうけれども)、詩創作というのは言語ルールに基づいている。一つの詩の作品は、国語で書かれているという意味では解るけれど、新しい区分けという意味では社会的認知がまだ確定されていないので、その価値は解らない。そこで、その価値は黙殺にさらされる。その黙殺への抵抗力を持てる物が表現ではないかと。当然表記はすでに社会的なものだから、また、だからこそ、それが残り、価値の再発見ということも可能になるので、詩(作品)というものが気分とは言えないと同時に、例えばその表記が物理的に失われたとき、その価値も二度と見出されえない。表現あっての創作であって、表現のない創作はないのはそういうことらしい。僕の気分は、作品ではないらしいのだ。そこで、繰り返して言うが、創造的表現というものは既にその時点で社会に対する抵抗をもっている。

非常に低次元の例を挙げよう。次元が低いというのは、既成の社会認知の中でその対象(既存の安定した言葉)が既にある例だからだ。例えば、ある母親が、子供に一般的な社会的認知に反した言葉を使ったとしよう。小さな子供がお絵かきをしたいので、その椅子を机にして描いたらと言ったとしよう。「お座り机で絵を描いたら、よっちゃん。」よっちゃんは、喜んでお絵かきをしていたが、しばらくして小学校に上がり、図画の時間で机が少々高いのが気になって、お座り机で絵を描こうとして、床にしゃがみこみ、椅子を机にして絵を描いた。さて、小学校の君子先生は、躾と考えて机に座って描きなさいと注意するだろう。社会的認知が座る台と作業する台を二分化させているところを、お座り机はこの区分を壊し、一元化しているかもしれないし、どちらでも使える台という概念を作りだし、三分化していると考えられるかもしれないからだ。

ここで、子供と教師は対立するだろう。「これは、よっちゃん、お椅子よ。お座り机じゃないの。」と。その時、次の二点を指摘したい。

1.もし、この時、「お座り机」という言葉が使われなくなれば、上記で言う一元化か乃至は三分化が否定される事になる。つまり、単に対象を指すという命名の問題ではない。その台を「机」というのか外来語を使って「デスク」と呼ぶべきかという問題ではない。言葉は何か対象を指し示すシンボルではなくて、世界観を創る認識行為だと言うべきだろう。

2.この対立は、必然的な対立だ。つまり、二分化する認識パターンを持っている人間には、いけないことだと感じられ、上記で言う一元化か乃至は三分化を許す認識パターンをもっている人間には当然だと考えられる。つまり、どちらが悪いわけでもない。同時に、世界はどのように見ることもできる。言葉によって認識の仕方が確定してくることによって認識も安定していくだろうけれど、既成の言葉を利用することは、それだけ、生(なま)の世界からは遠ざかっていくことになる。もし、生の世界が真実というならば、真実から遠ざかっていく。

1 から僕が言いたいのは、この種の発話は闘争だということだ。よっちゃんがお座り椅子を使わなくなる過程は、この二分化の認識世界に組み込まれていく過程であり、2に指摘したように少なくともそのこと自体が良いとも悪いともいえないものであるのに、社会的認知を受けられない限り圧力を加えられその世界観は否定されていく。だから、「お座り椅子」という言葉を発話しただけでは不充分で、お座り椅子の生活を獲得することはできない。闘争が伴わない創造的な発話はあり得ない。創造的な表現は社会的認知に諍い、潜在的に公的な発表を内在している。
2から僕が言いたいのは、どのような分化も可能なのだから、そして、分化は言語の本質なのだから、常に僕たちは真実から遠ざかっていっている。真実に近づけば、社会的認知は得られない。人間はお座り椅子を必要とする破目に陥ることはよくあり得るが、それは解ってもらえない、解ってもらえれば、それは創造ではない。社会的認知を得ることは既成の認識パターンに組み込まれる事になるから創造性を失っていく破目になる。詩のようなものは、既成の認識パターンを使っていながら、どうしてもその認識パターンに組み込まれないような何かを区切る作業だろうかなあと思う。対象を指す行為ではなくて、新しく対象を作り出していく行為だろう。だから、逆に言えば、それを読めば必ず、その何かが覗ける認識触発のからくりが詩だ。(「からくり」というものが安定したシステムとかパターンとかを持っているかどうかは難しいところだろうが。)だから、詩は、情緒とか、感情といったものとは程遠い。もっと具体的な仕掛けがなければならない。詩が表現しているものは、その特別な仕掛けを通してのみ垣間見る事ができる、この例のように既成にある椅子や机という対象とはかけ離れた、次元だ。

(上記2は、ゆゆしいことだ。僕は「詩は、人が鑑賞できるレベル、水準を持てなければ、芸術作品じゃあない。」といった気分に一種の反感をもってこれを書いているのだけれど、実は、なぜそういうことを言う人たちがいるか、上記のような意味では、僕はよくわかる。)

また、全然違う作品が二つあったとしてもおかしくない訳だろう。どちらがいいとかわるいとかいう議論は同じように成り立たない。わからないもののどちらのほうががいいかというのは、おかしな質問だ。 子供達をつれて去っていったハーメルンの笛吹き男が芸術で、帰ってきた二人の子供が詩かな。子供達が連れ去られ、二人の子供が戻ってきたからには、たとえ誰にも探し当てられないとしても、笛吹き男も子供たちも必ずどこかにいる。ところが、二人の子供にはそれが決して説明できない。知らないというわけではないのに。これは、明らかに笛吹き男が村人に対して行った挑戦だ。金を払わなかったからその代価として子供を連れ去っていったという以上のリベンジだろう。

だから、がちゃがちゃ詩についていうのはおかしい。解る時点で詩ではないし、解らなかったとしても社会認知を受け得るようになった時点で詩じゃない。僕は、誰それさんが何々賞を受賞しちゃいけないっていうような事を言っているのじゃない。それは大変立派なことだと思う。でも、詩のような社会認知というものは、本質的に社会認知ができないというような認知じゃないといけないよと言っているのだ。

じゃあ、解らないものを創作して多くの人に共感など得られるか?これは、微妙なところだな。 Schibboleth の中で、黒いミルクのガイキチさんをかなり突っ込んでデイスクールしているけれども詩人への共感の方はそんなことをしなくても確立していたんだから。だから、勘のようなものは、危なっかしいものではあるけれども大切なんだろう。それにしても、詩をつくる人は、そういう共感は持ってもらえるかもしれないが、わかっちゃもらえないものを創って見せて、見ろなんておこがましいというか厚かましい。ところが、創作というものはもともとそれ自体としてそうなのだ。だから、創作が生まれた時点で社会からの冷遇は内包されている。その本質を軽視するわけにはいかない。だから、机の中に入れて、墓場に持っていくような詩というのはあってはいけないんだなと思ったわけだ。以前の僕は、そんなの俺のもんだし、勝手だろと思っていたが、どうやら、そういうもんでもないらしい。

それから、詩が解らないものだというのは、ちょっとやっかいだな。つまり、はったりと詩は同じなのだろうか、違うのだろうか?はったりというのは、何かの社会的認知を狙っているパーフォマンスだから詩ではないのだろう、創作の本質と矛盾するから。しかし、外見は非常に似ている。同じだと思ってもいいぐらいのものだろう。じゃあ、無意識に通り過ぎ去られるものはどうかといえば、それもやはり創作ではない。詩というのは、人から意識的に無視されるような、ちょっとした嫌悪感が伴うような、ろくな物じゃないものじゃないといけないんじゃないか。

これは、まじめに考えれば、もっとやっかいだな。先ほど、からくりといったけれど、カラクリならば、気分じゃないから、似たようなものが作れるわけだろうからなあ。わからないカラクリといえば、さ、わかんないんだから、はったらないわけにもいかないのだ。ペテン師がペテン師におまえのペテンは不真面目だと息をまいているのか?僕の言っていることは、さっぱりわかんない...けれど、それを追っかける気もない。

と、ここまできて。それより。生活詩から離れて、僕らの持っている気分の条件というか、生み出す環境と、社会のことになるのかな、それと、僕らの言語の性格をスコープにいれて、それから構造的に表現(創作の手順)を考えるとういようなことをした時、カラクリが創作の上に非常に重要性をもってくるだろう。一般にスタイルってなんだろう。一家を成すような人は、スタイルやスクールまで作る。それは一体どういうことだろう。そんなことで僕はすぐにお返事ができないでいるのか? とはいっても、なんとなくだけれど、よく思うことなんだ。






散文(批評随筆小説等) タイピストとスタイリスト Copyright m.qyi 2008-03-05 13:37:20
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