『源氏物語』の概論の一部を学んだ日
右肩良久

 僕は1限目の春光に満ちた階段教室で
 コクヨキャンパスノートを開いている
 イトーヨーカドーの文具コーナーで
 河合先輩が恋しているレジ係の女の子から買ったノートだ
 「お釣りを貰うときに手とか触っちゃダメだからな」
 と河合先輩は言った
 「そう言っても触れちゃうんだろうけど、ダメモトで言っておくよ」
 僕はおつりの78円とレシートを貰うとき、彼女に触れたんだっけどうだっけ
 その日はその後生まれて初めてコンドームを買ったので喉から
 心臓が飛び出るくらい興奮してしまって、そういう瑣事は覚えていないんだ

 鼻先で暖かな時間が沈丁花の花のように少し紅色がかって匂っている

 「源氏物語」宇治十帖の作者は第一部の作者と同一であるとは確言できない
 「紫式部日記」の作者も紫式部本人であるという確かな証拠はない

 と先生の言う言葉の要点をゲルインクボールペンで書きつけた
 だがもちろん僕の考えていることは別で
 いいかい良久、ここは大学の大教室じゃなくてクノッソス宮殿のいるかの間だ、
 と自分自身に言い聞かせているのだ
 そもそも人類が滅んで人間という存在の様式が失われた場合
 言葉は言葉ではなくなり記録媒体の物理的痕跡に還元されるんだ
 わかるか、たとえ犬や猫や虫や魚が生き残って文字が生物の視界に残ったとしても
 「源」と「氏」が同じ体系の中で連続して補完しあっているなんて彼らにはわからない
 彼らにとっては舐めて苦いインク部分の分布が紙の中でどうなっているか
 という問題でしかない、わかるか良久
 と自分自身に言い聞かせているのだ

 生まれたての柔らかな虻が一匹、教場のほぼ真ん中の天井近く、魅惑的な羽音をたてている

 僕は直感している。
 僕の意識の外側でまったく違う生活が進行しているのを。
 僕はもう本当は死んでいて
 僕が見聞きしていることにはもう何の意味もない。
 カメラのさくらやで買ったMacBookの
 ローンの残金のこともまったく心配しなくていいんだ、ってことを。


自由詩 『源氏物語』の概論の一部を学んだ日 Copyright 右肩良久 2008-03-03 20:41:11
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