一端から一抹へ。
秋津一二三

 幾つかを証言し、幾つかを黙秘する。

 私とは多面体であるが、その中身は「がらんどう」なのではないか、と私自身が知覚し、取り扱っている面の殆どが思っている。実際にどうかは知らないし、その点をとやかくするのは秋津一二三という面の役割ではないし、asq(ak)という面の役割でもないし、ひふみという面の役割でもない。他のネット上に講じられた面、座標も同様である。「がらんどう」であると思っているということは、自己の存在の根拠を外に求めないと身の置き場のない思いなのである。まぁ、人とはそんなもので、「恋人」や「配偶者」なんてのはその最たる物であるな。本当に個だけならば語らなければならないものなどないのだし、他者に関わる何かがあるからこそ言葉は必要と生じるのである。というのを語りたいわけでもないので、進めよう。

 さらっといったが、秋津一二三はasqでもあるし、ひふみでもある。と説明した方が親切であろう。いきすぎた懐疑主義なため、私自身は自己の同一性に自信がない。提出できる物理的証拠もないので、胸を張っていえないのである。更に始末の悪いことに、他にも隠している名、座標、面もあるので、いまひとつ語りのキレが悪くなる。しかし、全てをあきらかにしたところでキレが良くなるとも思えないし、全てというのはそもそも、と繋ぐと長くなりそうなので、また進める。

 というわけで、ひふみやasqを知っている方は、私が詩のレッサーであるということはご存じということになる。一端で頂いたレスポンスのことを考えると、詩のレッサーという活動が実際にどう行われているかを知る手がかりを提示した方が良いのではないか、と考えた。詩のレスポンスについて、その一端であり、詩のレスポンスそのものではないので、あれで私のいう詩のレスポンスが何かと分かるわけもなく、何がどう勉強になったかも分からないし、好いと思えなくなるかもしれないし、想像を裏切ることになるかもしれないのだが、「ついて」が付く前の状態は見知っておいても悪くはない。が、良くもないので、座標を提示するにとどめることにした。実際に何処でどのように活動しているかはその気があったら探してみて下さい、という卑屈なのか傲慢なのかその両方なのか、と分析をはじめると長くなりそうなので、また進む。

 極端に言って、私は批評や感想が何かは分かっていない。聞けば相手にとっての批評や感想はこうなのだな、と分かるし、定義も辞書を引けば理解できるのだが、私にとっての批評や感想というものが分からない。正直にいうと、私は批評や感想を書こうと思って書いているわけではないのだ。ゆえに、私のレスポンスを既存の類型された概念と照らし合わせて指摘されると困る。その場、その人、その詩、を考えて最適化しているので、批評や感想といった形をあまり気にしていないのである。どう分類されようとかまわないのだが、詩のレッサーという役で考えると、批評や感想といった形は参考になる糸口程度のものであり、最終的な目的には成り得ない。もちろん、せめて批評や感想をいっぱしに書けるようになってから、というのが正道であるのだが、役柄的に、その場、その人、その詩を自分なりに理解できれば良いのだから、何をおいてまで分類に拘る必要がないのである。結果的に批評や感想ととられてもいっこうにかまわない。だが、批評だからどうだ、感想だからどうだ、といわれると、やはり困るのである。あぁ、何々な批評だ、といわれても困るか。困ることだらけであるが、ネクストである。

 基本的に私は他人である。ただの他人である。それはお互い様なはずである。詩と詩のレスポンス(批評感想評価)の間に優劣も善悪もない。というと一足飛びである。つまり、書いているのはどっかの誰かであるので、どっかの誰かという人という点で対等であるのだ。そこに優劣や善悪を生じさせなくてもいいではないか、面倒だ。
 asqは詩の採点をしているが、そのスレッドの冒頭で書いたように、基本的に一参加者に過ぎず、他の参加者がどんな姿を映し込もうと、所詮は一人の赤の他人にすぎないと思っている。それが軸なのである。読み手とは多種多様である。しかし、どの読み手も共通してどこぞの誰かさんに過ぎないのである。だから、見苦しい態度もとるし、わけの分からないことも書く。私は先生でもなければ紳士でもなく、神でもなければ石でもない。そこらにいる他人である。多くの余人よりちょっと詩を読み解く能力があり、多くの余人より詩のレスポンスを書いている、という程度の違いしかない。それは別にどうでも良いことではないか、と思うのだ。詩は読まれるべきであり、できれば、作者にとっても、何か詩にレスポンスがついた方がいい。しかし、そのレスポンスは書く人によって違って当たり前である。批評としてどうか、感想としてどうか、に腐心せず、そのレスポンスにはその人なりの違いを認め、違うなりの価値を見いだせば良いのである。
 というのは、一端で書いたように、すごく底辺の思想とも呼べる所から来ているので、場と人によっては受け入れ難いのは承知している。asqもひふみも底辺の存在なので受け入れないでもらった方がむしろ気が楽かもしれん。仮にある場のひふみでいうと、その場の目的を重視しているが、それが批評という形を苦心しなければ貢献できない物であるか、と考えたときに、批評や感想といったものならその場で権威ある立場についている人の方がよっぽど上手であるので、ひふみが出来るのはヨゴレとか他のではないか、などと思考錯誤しつつ実践していたりする。

 んーむ、こう書いてなんだが、「自分の出来ることをしましょう」という小学校程度の自戒で動いているのだ。出来ないことを出来るようにするのも大切なのだが、私は自分自身をいわゆる過小評価するにも程がある過小評価をしているので、すごく基本的なことしか表現しようがない。志が低いといわれればそれまでだが、真に他人としてその詩に対するというのは志もへったくれもないような気がする。素で対峙できればいいのだが、素の私はいきすぎた懐疑のせいで何を語るも覚束ないのである。がらんどうであれば、自身のために何を語るもなく、その場、その人、その詩、に合わせて語るだけなのである。第一義に自分のなんたるかが必要ないおかげでようやっと話せるのである。それはこの文もあまり変わらないし、先の二つの投稿も変わらない。最初に投稿した詩はある方に私の詩を読みたいといわれ、とりあえず下手くそでも良いから一作書いて自身を見直さねばなるまいという意図からであるし、その次の一端はasqが参加していたスレッドがやっと終わりに近づき、詩の採点者、レッサーとしてのひとつの役を終え、それは対称化して何であったのか、やはり自身を見直さねばなるまい、という意図からである。どう在るか、何のために在るか、はネットという柵の薄いところであるからこそ、尚更考えなければならぬことである。ゆえに、この文も見直しという意図が多分にあるし、一端に頂いたレスポンスに半ば対する形を導入してようやっと書けたものである。

 見直しを終える時があるかは分からぬし、終えたときに書き手として在るに足る理由が残るかも定かではない。しかし、先にいったようにどの私も自身はがらんどうではないか、と思っている。そう思ってしまった者は、語ることにすら理由がいるのである。その理由が如何様なものであれ、自身で否定しきれない理由がいる。懐疑主義者が騙すべき相手は、まず自分自身なのである。


散文(批評随筆小説等) 一端から一抹へ。 Copyright 秋津一二三 2008-02-20 11:40:45
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