蝉の砂時計
たりぽん(大理 奔)

 雪雲が切れたようだ。陽が射すと季節が春へむかっているのがわかる。公園の駐車場で休憩としよう。座席を後ろに倒して窓をすこし開ける。エンジンを止めてガラス越しの青空をピラーで切り取ると鳥のさえずりが聞こえる。まだ風は冷たさを残していたからルーズに羽織っていたジャンパーの襟を直す。去りゆく冬への礼儀というわけでもないけれど。窓の外、空にむかって葉を落とした木々が手を伸ばしている。空にむかう枝は地中の根と相似形だという事を思い出す。枝は空にむかう根なのだという。空を掴むことはできないけど、光を絡めとろうと伸びている。

 ふと蝉のことを思う。

 木々の根に抱かれて育っていく蝉のことを思う。蝉を育む一本の木はまるで砂時計のようだ。地表を軸として蝉の季節を回転させる。地中の枝が包み込む宇宙は、空にむかう根の掴み損ねた世界より暖かい。蝉は地中を旋回する。生は窓越しに明るい空を見上げている私の足下にある。地面からすら切り離され、私は充ち満ちた空から追放された。だから空に伸ばす両手は空に伸びる枝の一本に似ている。私は死をもって空に還るだろう。充ち満ちる事のない空にあこがれて立ち上がった報いとして。私の手は掴むことのできない空を必死に握りしめる。

 ふとクジラのことを思う。

 なぜクジラは空にむかってはねるのだろう。海は蝉の大地のように豊かだ。そして何よりも充ち満ちている。はねる。遊ぶように、苦しむように。そうか、空が海をさえぎっているからだ。海が無限じゃないからだ。境界線を越えていく。果てまではいけないけれど越えていく。その向こうには掴めないものが漂っていて、空には夜光虫がばらまかれたりもするのだ。私は境界線をさがしてもっと手を伸ばす。指先がフロントガラスに突き当たって、目が覚める。境界線に守られ、それに世界などと名付ける私は手に入れられない。自由よりも自由な、辿り着けないという無限を手に入れることはない。

 また蝉のことを思う。

 砂時計はいつか逆転する。蝉は地中より出て枝で鳴く。境界線を越えて新しい生を得てまた彼らの海に戻っていくために。私は目に見えないものを忘れているのだろう。知らないものに怯えているのだろう。どんなものにも境界線を求め、掴めないものを掴めると信じる。境界線に沿って世界は存在し、境界線こそが世界となる。常識も権威も法律も宗教も。そして大地を掴む根のことを忘れてしまう。蝉のように飛ぶことのない私もきっといつか滅びて空に還っていく。体は地中に。体温は海に。そして何も掴めない手のひらは透明な蝉となって永遠の星空へ上昇していく。

 そして誰もが砂時計を忘れてしまうのだ。





自由詩 蝉の砂時計 Copyright たりぽん(大理 奔) 2008-02-20 00:51:29
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