癇癪ガール
あおば


             08/02/16





昨日、映画の脚本があれば、映像は不要だと書いてしまったが、それは制限内の事象かと思う。
テキスト以前の詩は、口承で伝わったのであろう。万巻の書を脳裏に収め古代の学者は旅をしたと聞く。
テキストの発明で個性(身体性)を持たないことばそのものの独立性が高まり、詩の純粋性も高まった現在、朗読は詩の純粋性を汚すものとして卑しめられるようになった。
音というものは、そのようにして地に落ちてしまったのだから、聴覚を失えば、音を失い、純粋性を取り戻せるのかもしれないと、楽しそうな手話の映像を見ながら、なにか不合理な考えだと思いながら記している。
楽譜があれば、法規が記してあれば、設計図があれば、プログラムが記してあれば、お金があれば、何でも理想的になるのだと身体を離れられない私が喚く。喚くことばはどこにも聞こえずこころの中で飽和した。




自由詩 癇癪ガール Copyright あおば 2008-02-16 01:27:40
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