ふたりのはこぶね
あすくれかおす
久しぶりに、雨が降っている。
冬の冷たい雨は、無口なのに妙に音が響いて、私たちはいつも黙ってしまう。
二人は、何の変哲もない夫婦である。
面白いことと面倒くさいことが順繰りにやってきたり、許せないこともたまたま許せたりして、いつのまにか結婚して、そのまま一緒にいる。
夫は夕飯をもく、もくと、そのままの擬音で食べている。
私はソファからそちらの方向を眺めているのだが、何だかぼんやりしてしまって、夫を眺めているのか、その後ろのベランダを眺めているのかピントが合わない。
こんな冬の雨の日は、いつだって焦点がぼやける。
だからなのか、反対に音は冴えていて、目がよく見えない私の耳には、音の粒が、そう、つぶさに流れてくる。
加湿器のかすれた音。
やさしいギターがつま弾く、「ハンナ・ヌーヴォ」という楽曲。
そして夫の食べるひじきの、もくもく。
(世界の生き物たちは雨に閉じ込められて、それぞれどんな気持ちになるのだろう)
ふいに夫がひじきから箸を離して、じっと外を見やる。
それから小さな声でぽつりと、私に言うとも言わないともつかずに呟く。
「もしも神様が俺たちに、方舟を作れ、って言ったらさ。
その方舟に、お前だったら何を乗っけてく?
俺は何を、持っていきたいのかな」
方舟。
洪水の世界は滅びるのではなくて、雨によって浄化される。
不浄なものは運ぶことができないとするならば、何を持ってゆけばよいのだろう。
相変わらず私の焦点は合わないまま、「もくもく」だけが停止した世界の音に、話しかけてみる。
加湿器。
ハンナ・ヌーヴォ。
あなたたちは、新しい世界に、行ってみたいかしら?
私はもうしばらくぼんやりしてから答える。
「私は、この家が方舟であれば、それでいいと思う。
ここにある色んなものは、ひょっとしたら次の世界に嫌われてしまうかもしれないけれど。
この家が、方舟なの。
私はなんだか、それが一番良い気がする。
・・・あなたは?」
「・・・わからん。ただ、俺も、同じようなこと、考えてた。
うまく言えないけど、あるものは、ずっとあるもんな。
新しく増えたものとか、無くなってしまったものもあるけど、
実は何にも、変わっていない気がするんだ。
うーん。
持っていきたいものは・・・。具体的には・・・とりあえず、これ、かな」
夫は茶碗と箸をかかげる。くっついたひじきがハラハラと落ちて、方舟候補から脱落した。
「ばかね。お茶碗の中身、もう空っぽじゃない。
あなたって、お茶碗だけ持ってって、あ、そうか、飯がねえな、って、ずいぶん後から気づくタイプなのよね。
きっと、神様に笑われるタイプ」
何の変哲もなかったはずの私。
そんな私も、夫と出会い、過ごし、いつの間にか私という一人は、何の変哲もない、二人になっていた。
だから、たぶん私も、あ、ご飯がないね、だったら作ろうか。あ、ここって次の世界だったわ。ねえ、茶碗と、お箸しかないじゃない。
なんて呟きながら笑うのだろう。
「じゃあお前の、『家が方舟』案でいこう。
そしたら、ほら、ひじきご飯おかわり、できるよな。
よし、じゃあ後で、神さまに言っとく」
ばかね。
なーにがよし、言っとく、よ。ばかね。
久しぶりの雨は、今が冬で、音が冴えていて視点がさだまらなくて。
そして私たちが、何の変哲もない二人であることを思い出させる。
私はソファに顔を思い切りうずめて、小さく鼻歌をする。
そしたらお腹のなかに声が響いて、ああ、この音も方舟に乗っているのだな。
そんな心地がした。
そうだよねえ、ハンナ。
乗っているんだよね。
私たちと、落っこちかけたひじきと、あなたも、一緒に。