いただきます
亜樹

『近所から鳴き声が煩いと苦情が来た。さて、この場合学校で飼っていた鶏はどうするべきか』
そんな命題がしばしば出される。
倫理観だとか教育的配慮だとか、そんなものをこねくりあわせた結果、よく導き出される答えの一つに『たべる』というものがある。
人間は、この行為をどうも神聖視しがちだ。

私が今日食べたものは、食パンに野菜の炒め物、ポッキーにおかき、フライドキチンに白米、それからチーズと牛乳。少量のアルコール。
全部平らげてから、ああ、太ったな、と思う。
ひどいときにはもっと食べる。挙句もどしたりもする。
さらにあるときにはほとんど食べない。2日間、牛乳だとか林檎ジュースだとかしか摂取しなかったら、2kg体重が減っていた。その3週間後にはもとに戻っていたけれど。
コンビニにいくと0カロリーのゼリーが売っていた。バイトをしている友人に聞けば、売り上げは上々らしい。
「たべる」ということが生きるのに必要なエネルギーの摂取だとすれば、過食や拒食を繰り返す私の食事や、あのゼリーにの存在価値は0に等しい。
『たべる』ということに意味をつけなければ、もはや私たちはものを食べらないのだろうか。

『食べ物』と『そうでないもの』の違いはなんだろう。私の家では犬を飼っていた。茶色の雑種で、愛嬌のある賢い犬だった。私には彼はたべられない。けれど、例えば韓国に行って犬鍋を出されたならば、おそらくなんの迷いもなく箸をつけるだろう。
飼ってるか否か、という単純な問題ならばよいのだけれど、悲しいことに我が家では鶏も飼っていた。鶏卵用の鶏だが、年を取ると卵を産まなくなる。そんな鶏は父が土間で絞め、その日の食卓にのぼった。年をとった鶏はあまり美味しくなかったが、一応私はそれを食べた。臭みのある、硬い肉だった。
鶏に愛着をもっていなかったわけではないが、どうしても彼らは『食料』以上の存在にはなりえなかった。

TVでは、『この肉は、1頭1頭名前をつけ、愛着をこめて育てる○×牧場のものです』などと紹介しながら、焼肉の映像が流れる。それを見ながら、「可哀想」と言うのは簡単だ。けれど、そこにまとわりついた偽善の匂いがどうにも苦手だ。それに、焼肉は美味しい。豚も。牛も。魚も。鯨も好きだ。蛇だって食べたことがある。まずくはなかった。そういえば犬も美味しいらしい。一度食べれば、私の境界線もまた変化するんだろうか。
けれど、いくら思ったって私にはポチはたべれない。たべれないと、思いたい。町行く飼い犬を見て、水族館で鰯の群れを見る感覚で、『美味しそう』と思う人間にはなりたくない。これもきっとエゴだ。

魚はさばける。でも牛や豚は自信がない。姉はしばらく畜産の牧場で働いていた。勤めはじめてしばらくは、青い顔をしてかえってきていたが、一定期間過ぎるとけろっとした顔で夕飯のポークソテーを食べていた。曰く、白菜やピーマンを見るような目で豚を見れるようになってきたと言う。
「出荷前のピーマンにね、『ああ、大きくなって。美味しそうになって』って思うじゃない?『美味しく食べてもらうんだぞ』って。それと同じなんだよ、結局は」
さて、こんな姉は血も涙もない冷たい人間なんだろうか。私はそうは思わない。夕飯のポークソテーは美味しかった。

「ソマリアの子供に申し訳ない」と言いながら、父は残り物を食べる。どうも彼はニュースでみた紛争地域の子供たちが忘れられないらしい。私はソマリアがどこにあるのかは知らない。けれど、私が残したポテトサラダを、その国の子供が食べられないということはわかる。
祖父は随分前から糖尿で食事制限がされている。塩気の薄い食事を、彼はいつももそもそ食べる。そのくせ一向に煙草はやめない。
生きる上で、「食事」というものの地位はどれくらいのものなのだろう。思ってるよりは低いと思う。考えるよりは、高いと思う。

こんなことをくだくだ考えながら、ベルトの穴の位置を気にしながら、新作のスイーツのカタログを眺めながら、手を合わせる。
「いただきます」
この一言が免罪符だ。


散文(批評随筆小説等) いただきます Copyright 亜樹 2008-02-10 21:08:56
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