You Are Not Alone:ハーモニー・コリン『ミスター・ロンリー』について
2TO

ドイツ出身の映画監督。彼は映画のなかで文化人類学的なアプローチをもって西洋文明の相対化を目論むのだが、主演に起用せざるをえないクラウス・キンスキーにオイシイところをほとんどもっていかれる残念な監督である。しかしヘルツォーク本人も、ハーモニー・コリンの前作『ジュリアン』において、ガスマスク着装&半裸でドラッグを一発キメながら文明批判をぶつというエキセントリックな父親を演じて(“素”という意見もある)、オイシイ部分をかっさらっていった。本作では神父役であるが、やはりツッコミ所多し。ウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』は以上の史実を踏まえた上で見ると分かりやすい。『グリーンマイル』も同様。この点については『新世紀エヴァンゲリオン』第拾弐話を参照。また、「ニセモノ」と「オリジナル」という対立項については『交響詩篇エウレカセブン』第49話も参照。
そもそも現実において、マイケル・ジャクソンはすでに「作り物」である。本作においてマイケル・ジャクソンを表しているのは、主人公のマイケル・ジャクソンではなく、むしろアフロヘアでスケベな黒人少年の方であろう(この子の芸には爆笑できる)。ただし、それはマイケルが切り捨てた「黒人」という(そしてその典型的な)表象としてなのだが。
《Mr. Lonely》

孤独な、僕はミスター・ロンリー
僕のことを想う人は誰もいない
寂しい、僕はミスター・ロンリー
僕にも電話をかける人がいればいいのに

Bobby Vinton / Mr.Lonely
http://jp.youtube.com/watch?v=EwLJk1eFlPs&feature=related

 “Mr.Lonely”の歌にのせて始まる、ハーモニー・コリン8年ぶりの新作となる『ミスター・ロンリー』は、コリンらしさを保ちつつも、前2作に比べはるかに映画的な巧みさに満ちたものとなった。『ガンモ』や『ジュリアン』(これはとても美しい作品)で描かれた“現代のアメリカ”を去り、手に入れたのはスコットランド・ハイランド地方に佇む古城とそれを囲む美しい自然、手作りの芝居小屋、そして南米パナマで慈善事業にいそしむ修道女たち&神父の光景である。




『ミスター・ロンリー』オフィシャル・サイト
http://misterlonely.gyao.jp/

 本作に出てくるマイケル・ジャクソンやマリリン・モンローのように、他人の物真似をしないと生きられない人々のことを“インパーソネーター”と呼ぶらしい。ラテン系のマイケルや二の腕の太さが気になるモンローのほかにも、リンカーン大統領やヨハネ・パウロ二世(この点、ハーモニー・コリンは間違いなくダチョウ倶楽部を意識している)、少々面長のジェームス・ディーンやエリザベス女王(超似てねぇ)などが登場するのだが、彼らは自分の人生を憧れのスターや有名人の「モノマネ」としてすごす。そんな彼らが一緒に生活する古城は彼ら自身のユートピアなのだが、実はこれはヴェルナー・ヘルツォーク*1の『小人の饗宴』の意匠返しでもある。

 『ミスター・ロンリー』を貫くのは“演じる人物と演じられる人物”(これは俳優と演じる役柄の関係でもある)や数々の引用からなる「反復」という論理である。珍しく口数の多いドニ・ラヴァンが演じるのはチャーリー・チャップリンの「ニセモノ」なのだが、彼は“チャップリン”という記号化された「キャラクター」を反復するだけでなく、チャップリンの演じた“独裁者”も演じているのであり、またチャールズ・スペンサー・チャップリン・ジュニアという一人の人間、そしてレオス・カラックス(チョイ役出演)の作品でドニ・ラヴァンが演じてきた道化をも「反復」している。ところどころで挿入されるパナマの修道女のエピソードも、ある「反復」であるが、そこで語られるのは映画という「反復」、あるいは「虚構」に関する問題そのものでもある。(ここにハーモニー・コリンの映画的野心がある)。


《Cheek to Cheek》

 彼らがユートピアで歌い踊るアステア=ロジャースの“Cheek to Cheek”もひとつの「反復」の表象なのだが、これは少し解説が必要かもしれない。この曲はフレッド・アステアとジンジャー・ロジャース共演の『トップ・ハット』で使われた名曲であり、これを2人の優雅な踊りと共に歌われるとまったく幸せな心地になれる。

天国にいるようだ 胸が高鳴って 口もきけない
これぞ幸せ 君と一緒に 頬寄せ踊る
天国にいる気分だ こころの悩みなんか
一瞬に消える 君と一緒に 頬寄せ踊る

……

君を抱いて踊れば 僕は夢心地
天国にいるようだ 胸が高鳴って 口もきけない
これぞ幸せ 君と一緒に 頬寄せ踊る……

『トップ・ハット』より“Cheek to Cheek”
http://jp.youtube.com/watch?v=oWiTxsdR6no

 だが、映画『トップ・ハット』の公開は1935年、つまり1929年におきた大恐慌によって、アメリカ中が闇に包まれていた時代である。
そのような暗い時代に、人々は救いを求めるようにアステア=ロジャースの浮世離れした映画を求めた。そこに映し出されていたのは、豪華な邸宅、食事、甘いロマンス、そして軽やかな歌声とダンス……そこにはアメリカン・ドリームがかつて追い求めていた「夢の残骸」があったのである。スクリーンのなかにある幻影に身を投じた観客は、映画が終わると生きることさえ困難な現実へと戻されていった。『ミスター・ロンリー』で彼らが口ずさむのは、そのような「つかの間の夢」なのである*2。そしてそれは唐突に闇の中から現れ、終止符を打つ。ちょうど映写機が暗闇に“アステア=ロジャース”という「光」を放っていたのとは正反対のようにして。


《You Are Not Alone》

 「ニセモノ」には「オリジナル」が存在しなければならない。そして「ニセモノ」はけっして「オリジナル」になることができない。「ニセモノ」が「オリジナル」を超えることができる、あるいは脱することができるには、どちらかが壊されなければならない。終盤の出来事は「ニセモノ」としての(こう言ってしまえれば)宿命かもしれないが、その流れを上映が終わっても引きずったままではペシミズムに陥ってしまうだろう。この出来事においても、またパナマでのエピソードにおいても、問題となっているのは“その重さ”ではなく、「映画」(そして「ニセモノ」)という「虚構」・「反復」であり、また量られているのはその「価値」である*3

君はひとりぼっちじゃない
だって僕は君といっしょにいるから
君は遠く離れているけど
僕はここにいるから
僕らはどこまでも隔てられているけれど
君はいつも僕のこころのなかにいる
だから君はひとりぼっちなんかじゃない

Michael Jackson / You Are Not Alone
http://jp.youtube.com/watch?v=fPyxgHCNxUE

 そう歌うマイケル・ジャクソンの声は、“Cheek to Cheek”の歌声よりも甘いものなのかもしれないが、ハーモニー・コリンは“素顔のない”マイケル・ジャクソン*4という「ニセモノ」を選び、そこに「見せかけ」のペシミズムを描き出す。だが、それは「映画」という「虚構」をメタ的に暴く仕掛けであり、さらにその本質的な「価値」に対して仕掛けられた罠でもある。つまり『ミスター・ロンリー』は、たとえそれが「虚構(ニセモノ)」であってさえ、それでも私たちにとって「価値」をもつということを逆説的に映している。そのような「価値」こそが、ミスターそしてミス・ロンリーにとって日々を生きていくことの「奇跡」であることを、いみじくもメイクを落としたマイケル・ジャクソンの微笑みは示しているのである。


For You from "Mr.Lonely"


*1 ドイツ出身の映画監督。彼は映画のなかで文化人類学的なアプローチをもって西洋文明の相対化を目論むのだが、主演に起用せざるをえないクラウス・キンスキーにオイシイところをほとんどもっていかれる残念な監督である。しかしヘルツォーク本人も、ハーモニー・コリンの前作『ジュリアン』において、ガスマスク着装&半裸でドラッグを一発キメながら文明批判をぶつというエキセントリックな父親を演じて(“素”という意見もある)、オイシイ部分をかっさらっていった。本作では神父役であるが、やはりツッコミ所多し。
*2 ウディ・アレンの『カイロの紫のバラ』は以上の史実を踏まえた上で見ると分かりやすい。『グリーンマイル』も同様。
*3 この点については『新世紀エヴァンゲリオン』第拾弐話を参照。また、「ニセモノ」と「オリジナル」という対立項については『交響詩篇エウレカセブン』第49話も参照。

*4 そもそも現実において、マイケル・ジャクソンはすでに「作り物」である。本作においてマイケル・ジャクソンを表しているのは、主人公のマイケル・ジャクソンではなく、むしろアフロヘアでスケベな黒人少年の方であろう(この子の芸には爆笑できる)。ただし、それはマイケルが切り捨てた「黒人」という(そしてその典型的な)表象としてなのだが。



散文(批評随筆小説等) You Are Not Alone:ハーモニー・コリン『ミスター・ロンリー』について Copyright 2TO 2008-02-03 08:17:16
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