私は冬が好きだ。周囲が生命にあふれるどんな季節よりも。雪深い雪原をトレースしていくとき、全ての冷たさの中で暖かい自分の体温を信じられる。吐く息に水蒸気が混じっているのが見える。大地の精気が星空に吸い込まれまいと戦っている音を感じる。一つ一つの命が大切に思える冬が好きだ。岡部淳太郎、その作品は季節にたとえると「夏」の匂いが濃いと感じる。むせかえる夏草の匂い。私が触れることのできた作品の多くにそれを感じる。突き進んでいこうとする季節の中で叫び、なき、いじけ、たじろいでいるように思える。私は夏は苦手だ。暑さや強い日差しもそうだけど、とにかく「よだきい」のだ。しかし、ここで季節の好き嫌いを戦わせるつもりは毛頭ない。
私が岡部淳太郎の詩について考えるとき、ついその「夏性」にとらわれて作品と言う「個」ではなく岡部淳太郎という「場」を評してしまいそうになる。それは作品群に一貫して流れる地下水脈のようなものを強く感じるからだろう。深く静かに枯れることなくそれは作品を育てていく。同じ水と同じ土に毎回撒かれる「詩」という作物。そのひとつがこの作品だ。そしてそれは決まったように夏に収穫される。
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「 散文的な夏 」 岡部淳太郎
冒頭からの四つの連のなんという密度。これは夏の日差しではなく、それが焦がす存在の影だ。歩きながらその速度で追いかけていく作者と追い込まれていく影。陽炎がゆらめきアスファルトが溶け、夏がそこに存在する。それはとても「散文的」に。文型的に散文という視覚的な試みを意図しただけにとどまらないその密度に私は苦手な夏を感じる。真冬に読んでも暑苦しい。それほどまでに、夏は作者から発散されたと思う。
作者は後半、夏から季節を移そうとするかのように歩みを緩める。立ち止まり、自らの中にある「汚れ」を見つめる。汚れとは何なのかを解析しても仕方のないことだろう。ずれていったもうひとつの夏それが「おまえ」。暑苦しすぎる夏を抜けて立ち止まったときに見上げた空はやっぱり夏だっただろうか。
春や秋、そして冬が巷にはあふれている。だからこそ夏が、岡部淳太郎の存在感が増してくる。蒸し暑さと激しい日差しはきっと容赦なく照りつけるだろう。そして私はきっと「よだきぃ〜」と思うのだろう。でもその季節をくぐり抜けなければ四季はめぐらない。夏は場に左右されてはいけない。
追われてゆく
夏を 静かに死なせよ
空の句点の中心に
夏を そっと投げこめ
想いは強い日差しに隠されて輪郭をはっきりと見せない、ずれていったもうひとつの季節への挽歌。真夏の挽歌。ん〜やっぱり暑苦しいのは苦手だ。考えがまとまらない。
最後はやけくそ。夏は苦手だけどね、この詩はとっても心に残ってるよ岡部さん!!(ああ、感想文になっちまった)
(文中敬称略)