ユダは考え深かった。
生田 稔
ユダは考え深かった
海野小十郎
いろいろ考えたんだが、結局のところユダというイエスの反逆の弟子といわれている使徒ユダは、非常に考えの深い個性ある人格だったのではないかということに至った。
自身が卑しい裏切り者になることを百も承知で引き受けたのである。聖書にはこうある、イエスは誰が裏切りどうなるからを初めからご存知だった。
ユダはそんなことは知らなかった。イエスに巧く利用されただけだった。だけどイエスだって巧く利用されたのかも知れない。聖書という非常に有名な神の言葉を巧みに実践するため地上にに遣わされて刑柱という苦しみの杭にかかって非業の死を遂げる。
それよりも、ギターか竪琴でも弾いて、人を集めて説いて回ったほうがよっぽど良かったのではないか。と、あるとき仲間のクリスチャンに言ったら大笑いされたが。冗談ではないそれでいいのだ。キリスト教のその後の悲劇を、振り返ってみるとき。切実にそう考えざるをえぬ。そのことは遠藤周作さんの作品に詳述されている。
ユダ論争は、すでに終了している。ユダは
イエスを高めるため存在していた。という説はまことに正しい。
次は、サタンに方向を変えよう。そもそも、聖書はサタンのためにかかれたといつても言い過ぎではない人間性は善だとか悪だとかいう説があり、幅を利かせているが、善悪対立の構造は、あらゆる場面や境遇や環境において、用いられてきた方法論にすぎない。
一枚の紙には裏と表があるように、くるりくるりと回転し、身を翻しているに過ぎないのが善と悪である。つまりあることが、Aの人には都合が良いがBの人には不都合であってそのためには戦わねばならないという事なのだ。
悪人といい反逆者という人は、ある規格から外れた人というにすぎない。その外れてしまった当の規格というものが、普遍的な善であるかどうかは大いに疑わしい。勝てば官軍負ければ賊軍というがごとしである。
もう一つ、糞尿について考えてみよう。幼いとき、「ガリバー旅行記」の幼児向け完訳版を人に借りて読んだ。その中だったと思うのだが、不老不死の国かどこかで、科学者たちが集まって、糞尿の利用法について、しきりに研究するところがある。幼心であってもこのことに非常に感心した。有り余って、臭くて汚くて仕方がないどうしようもない余計者糞尿を旨く利用すればこれほど良いことはない。
ただそれだけの感慨だったけれど、時折公害だとか汚染だとか言うことをきくとき、その必要性を深く思わざるをえない。わたしだけではない、そのことを考えている人は多いにちがいない。糞尿が金肥であったことを知るときますますそうである。
こう考えると、確かに普遍的真理や絶対的方法論はこの世に存在する。そうでなければ、この世界は、いや宇宙は存在をすら始めなかっただろう。我々は、その真理や方法を求める途上にあるにすぎない。
どうも、昨日読んだ小林秀雄さんの「様々なる意匠」の影響が今日のわたしには強い。
と、気取ってみても仕方がない。野次馬どもがどう言おうとも、わたしは食わなければいけない、食う方法を見出すためには、書かねばならぬ書かねばならぬ。
遠藤周作氏によれば、イエスがキリストであり彼に関する聖書の予言が着々と成就しつつあることを一番理解していたのがユダであったと聖書をよく内面的に想像を働かせ、周辺の事実を寄せ集めると解るというのだ。
そのほかの弟子たちはただ偉大な主イエス、あるいは何か良いものをくれる人イエスとしてしか捕らえていなかった。彼らの心には、ユダほどのアンビバレンツな透徹した理解や尊敬と憎しみの入り混じった感情は持ち合わせはなかった。
ユダは銀三十枚ぐらいの僅かな金子に目がくらんだのではなかった。当時の宗教指導者たちと同じようにイエス・キリストに好感を持ってはいなかった。
祭司たちは単に自分たちの地位が脅かされるぐらいの憎しみや嫉妬心ぐらいであったかも知れない。反面、イエスはわざわざユダを使徒として選び、金箱を預け、それを流用するのを見ぬ振りをし、ユダが出てゆくときには、ユダの運命を非常に悲しんでいる。「生まれざりし方良かりしものを」とまで言い添えている。
思うに、聖書予言、それがイエス・キリストのとき成就したということを前提としても、それは命をかけた野球とぐらいとしか評価できないであろう
ユダとイエスは、同じように悲惨な死を遂げている。二人は、それぞれ神の子とその反逆者、単にそれだけのことである。聖人であり世界に良い影響を及ぼした偉人は無数にいる。
聖書やイエスの教えだけで、経世済民できると考えるのは間違いではなかろうか。少なくとも後に使徒となったパウロは異邦人でも律法を持たずとも、おのずから自然に、そう気づくことなく良い行い、つまり律法を実践していると言っている。
イスラエルのユダヤ教がキリスト教に取って代わられたように、世界の人口の多くを占めるキリスト教は、すべての宗教の良心的総和である新しい宗教観、新しい政治その他に道を開く役割をしなければならない。
。憎しみは消えてゆかねばならない。どうしたら、消えるか。神様が譲っていただきたい。
このあたりで満足していただきたい。
イエスもユダもサタンも(順不同)わたしもそしてあなたも、みんなパウロの言う如く、何と哀れなものであったのであろう。
さっきから、五木寛之氏著「青春の門」を読み返している。自立篇・放浪篇文庫本四冊であるが、主人公伊吹信介は自分の良心と自ずからなる欲求により、数人の女性に惹かれながらも、最初の恋人で自分を心から慕ってくれる織江と何のわだかまりもなく結ばれる。
「青春の門」にはこれ以後の続篇があるのかどうか知らないが。人類の未来もわたしは知らないのと同じように、どうか織江といつまでも一緒に、人間の本性が求める純愛に従ってほしい。