批評祭参加作品■クラシック音楽についての印象
葉leaf

■音楽は侵す

 フランクの交響曲ニ短調を聴いていて感じたのだが、音楽はどうやら聴き手の心や体(あるいは心と体が未分化のまま融合しているもの)を侵すようである。

 特に弦楽器は私を削り取っていくような感じであるし、管楽器は私に穴を開けていくかのような感じである。音楽とは畢竟攻撃であって、音楽を聴くことの快楽は被虐の快楽なのかもしれない。

 音楽が鳴り止んで沈黙が訪れたとき、果たして私はへこまされたゴムボールが元に戻るように、侵害された心身を弾力的に元に戻すことができているのだろうか。音楽によって奪い取られたものはなかったか。


■私という楽器

 音楽を聴いているとき、音楽を鳴らしているのはCDプレーヤーではない。私である。私が楽器として奏でられているのである。

 私は振動する絃であり、息を吹き込まれる管である。私は弦楽器の音も、管楽器の音も、打楽器の音も、あらゆる音をあらゆる高さであらゆる強さで鳴らすことができる、万能の楽器である。

 私は時折奏でられることに飽きる。奏でられることに耐えられなくなったとき、私は音楽を聴くことをやめる。奏でられたくなったとき、音楽を聴き始める。


■炎

 音楽は炎である。明確な形を持って静かに燃えることもあれば、激しく乱舞することもある、色のない冷たい炎である。音楽=炎は決して煙を出さない。燃料は燃焼によって完全に消滅し、別のものに姿を変えることはない。

 音楽=炎は、胸の辺りでいらいらしている砂のようなもの、脳の層の間に固着した重い金属液のようなもの、を燃料とする。音楽=炎は少しずつこれらのものを吸い上げていき、不思議と非生命的な地平で燃え続ける。

 音楽=炎は燃え移る。だが燃え移った瞬間、別種の炎になってしまう。この炎は色を持ち、熱を持ち、人を楽しませることができる。人の肉体に燃え移るからだ。


散文(批評随筆小説等) 批評祭参加作品■クラシック音楽についての印象 Copyright 葉leaf 2008-01-27 07:39:04
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第3回批評祭参加作品