映画館で私は
音阿弥花三郎

映画館で私は単なる映写幕に過ぎない。 
私の皮膚の上をひかりとかげが交互に駆け巡り 
さまざまな色彩が躰じゅうを舐めまわす。 
しかしそのことによって陶酔することはない。 
なぜならひかりの舌先は皮膚にのみ留まっているから私は 
躰内にひかりとかげを引きずり込むことはできない。 
私は面積によって生きるとされ私の
厚みに渦巻く熱さを知るものはいない。 
また一つの物語が終わった。 
私の皮膚は冷め ひからびたひかりが散漫に拡がる。 
男や女が死者が生き返ったように我に返り
ささやく声が納骨堂のように低く拡がる。 
このとき突きあげる衝動が私の躰を波打たせる。 
私は積年の思いを実行した。 
つまりそうすることでしか観客の陶酔と退屈の感情
のすべてを私の内部に取り組むことはできないであろうから。 
そのとき始めて私の躰内に屹立したひかりとかげ
が熱をともなって進入して来る筈であるから。 
私はさらに大きく波打つと
プロセニアムアーチから剥がれ観客の中へ倒れこんだのだ。 
つまり私は私の躰で観客を抱いた。 
観客の激しい身動きと悲鳴がそれまでのつつましい静けさを一変させ
場内の混乱は私の想像を上まわった。
だが思いもよらず 焦がれていた 陶酔はない。 
私の躰を 震わせた 悲鳴もすでに ない。 
やがて 私の躰のあちこちが引き裂かれ 
しらけ切った男や女の中で 
私は初めて自身の血の臭いに酔った。


自由詩 映画館で私は Copyright 音阿弥花三郎 2008-01-26 21:44:13
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