「ネット詩fについて」清野無果さん
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裂け目を開くために私は頁をめくる。アリストテレスの「詩学」では、大まかにいって詩作というものを「再現(ミメーシス)」と定義しているが、そこで挙げられている悲劇・喜劇・音楽という各詩作において、それぞれを隔てているものは、媒体(メディウム)であると語っている。ここでアリストテレスの挙げている媒体と言うのはリズム、歌曲、韻律であるが、そのうち後者2つは言葉の使用を前提としている。アリストテレスは、悲劇・喜劇を「あるものは媒体のすべてを同時に用い、他のものは媒体を部分部分に使い分けているという点で異なっている」*1として説明する。リズム、歌曲、韻律というのは技術(テクネー)であり、これらを使用することによって詩が創られているというのである。
すると、アリストテレスのいう「詩」とは、媒体(メディア)の複合体によって生み出される「再現(ミメーシス)」であるといえる。アリストテレスにとって、書かれた詩句とはそれ自体が媒体(メディア)なのである。したがって、我々が今「詩」と呼んでいるものは、それ自体がすでにひとつの「メディア」であるということができるだろう。
すなわち、問題となりうるのは「紙媒体の詩/ネットの詩」というメディアの二項対立ではない。「詩のメディア」ではなく、特定の「メディアの詩」でもなく、「詩はメディア」である。したがって、「詩におけるメディア」は「ネット−詩−紙媒体」と記述されるべき問題なのである。
とはいえ、「紙媒体の詩/ネットの詩」この二項対立構造を定立せざるをえないことこそが、詩壇がモダニズムの残骸にまみれていることを如実に物語っている。ヘーゲルによって提示され、マルクスによって厳格化されたイデオロギー闘争、すなわち弁証法の匂いが「インターネット」と「紙媒体」という分割には強く感じられるのである。紙媒体はひとつのメディアであり、他方ネットはまたひとつのメディアである。だが、現状においてこれら2つのメディアの違いと言うものをベースとした議論がどこまで発展しているのだろうか?
常識的に考えれば、詩作品の原稿の管理は作者が行うものであり、投稿掲示板にある作品は原稿そのものではなくコピーであるから、それを削除されるということは、例えていえば詩誌に送った作品が没になった、また例えれば、書店に置かれていた詩集が店頭から取り下げられた、といったようなことで、作品の原稿そのものが削除されたわけでも、著作権を侵害されたわけでも、もちろん、詩人としての存在を否定されたわけでもない。
これは、印刷物とネットという「メディア」の違いを考慮に入れていない。なるほど、「投稿掲示板にある作品は原稿そのものではなくコピーである」という見解には、(留保付ではあるが)一部同意できよう。しかしながら、次の「たとえていえば詩誌に送った作品が没になった、またたとえれば、書店に置かれていた詩集が店頭から取り下げられた」という例えは的外れである。これらの例は、印刷物において該当する例であり、それをそのままネットにおけるそれに持ち込むことはできない。なぜネットにおけるアーカイヴが上記の例のように、印刷物のアナロジーとして処理されてしまうのだろうか? それは未だに「ネットにおける詩」についてのエチカが確立されていないことを如実に物語っている。
この例示においては「投稿した作品が削除されること」が、「書店に置かれていた詩集が店頭から取り下げられた」という、商業的なものとして類推されているのは注目に値する。この場合、後者は”物的な流通”として公共空間から姿を消すことを意味するが、前者は”現前的なもの”として公共空間から消え去ることを意味しており(はたして店頭から消えた詩集が焚書されてしまうのであれば別だが)、例としては不適格なものであると言うのは前に述べた。しかしながら、ここで重要なのは詩集(詩作品)がその流通を前提として記述されている点である。詩作品は商品であるかぎりにおいて、そこには市場というシステムが存在する。ここには市場での流通という印刷物についての論理が、ネットにほぼそのまま持ち込まれており、さらにこれはそのまま「現代詩フォーラム」のシステムにおいても当てはまる。ポイントを換金するという議論が時々に散見されるが、まさにこのような議論は現代詩フォーラムという擬似市場システムが生み出す当然の帰結であると言っていいだろう。ポイントはそのような市場における通貨であり、それゆえ管理人はポイント制限という形で、通貨のインフレを防止するのである。
そのような文脈で見た場合、たしかに投稿者が消えることによって、その商品としての詩作品も流通網から外されるという論理はなりたつ。しかしながら、ここはネット空間であり、印刷物の論理が適応されるべき空間ではない。(別に自分は市場そのものを批判しているのではない。ただ、ネット空間において、市場としての別のあり方が存在するのだと言っているにすぎない。)
ネット詩における第一の定理は「詩が彼における現前のすべてである」ということ、すなわち「作者としての実体は、詩によって出現する」ということ。作者が作品を作るのではなく、作品が作者を作り出すのである。それゆえ、ネット詩における作者あるいは主体とは、ここのテクストの配置によって生み出される一つのテクストにすぎない。それゆえ、投稿掲示板からの作品の削除は、一種の全面的否定であり、姿なき殺人である。現代詩フォーラムとは(程度の差はあれ)SNSであると表明しており、だからこそそこに「登録した人」がいるわけだが、それはタダのハンドルネームであり、そのハンドルネームまで含めて、作品が「中の人」を作り出すのである。たしかに作品の消去によって「中の人」が消えるわけではないが、そのネット空間における作者は実際に抹消されるのである。
これまでの議論から2つ目の定理が浮かび上がる。「ネット空間において、オリジナルは存在しない。」すなわち「ネット空間における作者/作品は、すべてがシミュラークルとして存在する。」という公理である。したがって、もう一歩進んだ議論をするならば、「ネット詩、と呼ばれるようなものは、すべて複製芸術である。」ということもできるだろう。(勘違いしないでほしいが、自分は「紙媒体/ネット」という二項対立にそって議論を展開しているのでも、紙媒体に対するアンチテーゼとしてネットを語っているわけではない。ただ、それぞれのメディア固有のあり方を無視することなく、両者を取り上げようとしているにすぎない。ジンテーゼなど求めてはいないし、そもそも不可能である)。
現代詩フォーラムは擬似市場システムであると言ったが、それを作り出したのは監視者としての管理人である。もちろん、「暴言、誹謗中傷などへの適切な処理、入退会の管理など、BBSの管理者は自身の裁量権限のもとにそれらを適切に行う必要がある。」しかし、だからこそ我々はその管理人に対して倫理を突きつけなければならない。現代詩フォーラムが擬似市場であるとしても、我々は商品ではない。ただ、現状を考慮すると、ネット詩について書かれているものは、(今回挙げたものを含め)ほとんどが「印刷物としての詩」というディスクールから逃れていない。ネット空間における詩作に固有のエチカを打ち立てること、そこからこの「文学空間」は始まることになるだろう。
*1 アリストテレス「詩学」岩波文庫、p.23