批評祭参加作品■鏡の詩「フィチカ」
Rin K

 子どもの頃「怖かったもの」がたくさんある、チャルメラのラッパ、ギャル、雷に、「かちかち山」の絵本・・・。そんな中で、私が何よもり恐れていたものが天狗のお面であった。
 そのお面は私が六歳のときに暮らしていた祖父母宅の客間の壁にかけてあったものだ。誰がどこで手に入れたものか、祖父母でさえも記憶にないという。今改めて見れば「笑点」の歌丸師匠にどことなく似た、人の良さそうな顔である。当時この客間が私の部屋として与えられていた。一度このお面を外してほしいと祖母に交渉したが、昔からここにあったから動かさないほうがいいという、どうもスッキリしない理由で断られてしまった。後々聞けば、祖母も天狗が怖かったらしい。
 なぜそんなにもただのお面でしかないこの天狗が怖かったのか。それは、見るたびに表情が変わるからである。あるときはにらみつけているように、またあるときは微笑んでいるように。友達とケンカをした日に天狗を見れば、その目は吊り上っていた。家の前の掃除を手伝った後に天狗を見れば、その表情はおだやかだった。かわいがっていた犬が死んでしまった日は、天狗の目からも確かに涙がこぼれていた。今思えば、あの天狗は心の鏡だったのかもしれない。見るものの内面をそのまま映し出していたから、硬い木製の筋肉でありながらも、恐ろしいまでに自在に表情を変えたのだろう。

 「フィチカ」 
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 この詩を読んだとき、ふと私は「天狗だな」と思った。怖いという意味ではない。心の鏡という意味で。この詩は自らは何も語りかけてこない。書き手の感情がほとんど含まれていないのだ。
 書き手の感情が痛いほど伝わってきて、それが心を揺さぶる詩。心に警鐘を鳴らし、問いかける詩。言葉遣いや表現を存分に味わえる詩・・・。ひとことで「詩」と言っても実に多様である。そしてそれぞれに魅力がある、。しかし「フィチカ」のような「鏡の詩」とは、なかなか出会うことがない。
 フィチカの「雨」はただの雨ではない。「言葉」である。と、この詩を最初に読んだときに感じた。それはきっと、そのとき自分がある人から受け取った言葉に悩んでいたからであろう。その言葉は厳しく、冷たいものであった、この詩の表情も、同じように厳しかった。天狗のお面で言うと、こちら側を穴のあくほど見つめているという感じである。そして、「悩みの種であるその言葉の真意を考えろ」と語ってきた。

>雨の言葉がわかる人だけ、
>雨を愛する人にだけ、
>フィチカは笑みを返してくれる

もちろん詩に説明がなされているわけではない。自分の心の奥底に潜んでいたレジリエンスを映し出し、それが語ったまでだ。
寄せられたコメントを見てもそうだが、この詩を「あたたかい」と感じる人もいれば、そのときの私のように「厳しい」と感じる人もいる。フィチカの「雨」は雨なのか、それとも何かを象徴しているのか、それも人によって捉え方が異なる。また、読み手のそのときの心の状態でも表徴を変えてみせるだろう。現にこの散文を書くにあたり、再度読んでみたところ、今度はおだやかな表情を見せた。
 「鏡の詩」。それに映された自分自身の心を感じることも、詩の楽しみ方の一つであろう。

 ルナクさんの詩は「詩人の詩」ではなく「歌人の詩」だ、と思う。それはリズム感の問題だけではなく、言葉の響きに大いに関係がある。「フィチカ」これは空想の国の名である。実は、投稿される前に初稿を見せてもらっていたのだが、そのときはこの国の名は、良く似た別のものであった。ところが実際に投稿されたものは「フィチカ」に変わっていた。テストで、「最初に書いた答えで合っていたのに!」ということが多い中、このチェンジは正解だと思う。丸みを帯びた響きは、鏡が反射するようにキラリと光って読者の目にとまる。

 「鏡の詩」に定義はない。どの詩をもって「鏡の詩」とするかは、読者が決めることだ。「フィチカ」は私にとっては数少ない「鏡の詩」である。子どものころの天狗を未だに忘れられないように、この詩もずっと心に残り続けるであろう。




 


散文(批評随筆小説等) 批評祭参加作品■鏡の詩「フィチカ」 Copyright Rin K 2008-01-25 13:38:06
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