批評祭参加作品■雑記1
葉leaf

■漫才と詩

 前々から思っていたのだが、漫才もしくはお笑いと多くの詩は似ている。「笑い所」と「感銘を与える表現」が対応しているのだ。芸人は観客を笑わせるために、あの手この手を使う。詩人も、読者に感銘を与えるために、あの手この手を使う。audienceを楽しませるために技巧を凝らすという点で、芸人も詩人も似ているのである。

 チュートリアルがM1で披露したネタは詩だと思った。福田が冷蔵庫を買ったことに対して、徳井は、あたかも福田が結婚したかのような反応をする。冷蔵庫を買うことに置いている価値が、二人では全然違うのだ。そこから生じる徳井の異常な反応が、日常的な価値文脈を逸脱するものとして、きわめて詩的であった。


■「危機のなかの創造」をめぐって

 「危機の中の創造」は北川透による谷川俊太郎論で、「谷川俊太郎の世界」(思潮社)に所収されている。

 北川は本論考の中で、「戦後詩は、朝鮮戦争後の大衆社会状況に、その詩的表出力を本質的にかかわらせる方途を見失って、近代の詩の伝統に対して根底的な批判を喪失していった」ことが戦後詩の危機であるとしている。

 だが、詩は絶えず(1)前代の詩を批判しながら(2)新しい社会に順応していかなければならないのだろうか。

(1)について

 文化が移ろうのは、それまでの文化が批判され乗り越えられるからであり、その逆ではない。つまり、文化が移ろうということが分かっているからそれまでの文化を批判しなければならないというのは論理が逆転している。「文化は変遷し現在はその到達点ではない」という歴史批判的な知見は、文化批判すべきとの命法を基礎付けえない。そうではなく、文化批判すべきなのは、批判をしないと文化が停滞し社会に活力が生まれないからだ。

 だが、批判にも様々な程度がある。定型詩を批判して自由詩にする場合と、前の世代の詩人の語彙が古臭いからもう少し新しくしようとする場合では、批判の程度がぜんぜん違う。前代の詩に対してわざわざ「根底的な批判」を加えなくとも、もっと穏やかな批判で十分詩の領域を活性化することは可能なはずである。むしろ、絶えず根底的な批判ばかりしていたら、それまでの積極的な蓄積が無駄になり、むしろ不経済である。

(2)について

 社会の本質をなす特徴的な部分について詩がかかわりを持っていることは必要か。たとえば現代のような高度な情報化社会、あるいは高齢化社会に、詩は本質的にかかわる必要はあるのだろうか。大量な情報が高速に伝達されることは、詩に反映されるべきか。あるいは、高齢者が多いことは詩に反映されるべきか。

 いや、多分そういう話ではなくて、もっと詩が関与しやすい社会の本質的特徴について詩が関与すべきと言っているように思われる。たとえば自然との関係の希薄化。あるいは人工的自然とのかかわりあい。さらには精神的な特徴で、たとえば現代を席巻する科学的精神に詩が関与すべきである、という主張。


■敗北

 詩は何かしらの力を持って読者に感銘を与えないと評価されない。読者に価値を認めさせるという意味で「勝利」しなければ権威が与えられないし正当に消費されない。

 そのような詩をめぐる制度に疑問を投げかけるために、「敗北」の詩を書いてみても良い。つまり、徹底的につまらない詩を書くのである。例えば、小学生の日記のようなもの。それに「敗北」という題をつける。

 だが、そのようにしてできあがった「敗北」という詩は、実は勝利の詩なのである。つまり、「読者との関係で勝利を収めた詩だけが生き残るというシステムを批判する」というコンセプトが、詩の歴史の中にそれなりの位置を占め、読者に対して訴える力を持ち、勝利する。

 徹底的に敗北するためには、「敗北」という題を捨てなければならない。また、詩をめぐるシステムを批判するというコンセプトを捨てなければならない。だが、コンセプトを捨てたら、詩「敗北」は成り立たない。結局、詩「敗北」は中途半端に敗北しながら中途半端に勝利するというあり方しかできない。詩「敗北」には徹底的な敗北は不可能なのだ。

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散文(批評随筆小説等) 批評祭参加作品■雑記1 Copyright 葉leaf 2008-01-24 10:55:01
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