沈黙の内側、ダイヤグラムは途切れたものばかりで体裁を整えている(6・完結)
ホロウ・シカエルボク


腐臭の指先はぶるぶると震えながら俺の喉元に食いこんでくる、その震えの中にあるものはきっと、怒りに限りなく近い哀しみなのだろうと俺は感じた。ぼんやりと、白色に溶け始めた希薄な脳髄の中で。怒りに限りなく近い哀しみ。右目の奥の方辺りで脳味噌が、無意識にそのフレーズを何度も繰り返した、怒りに限りなく近い哀しみ、怒りに限りなく近い哀しみ…それは結局、途方も無い哀しみでしかない。そこに猛るような気の渦がある分だけ余計に、途方も無い哀しみでしかない…腐臭の指先は途方も無い哀しみにぶるぶると震えていた、奴のどこか釈然としない存在の中にその欠片を認めるまでにひどく無駄な時間を費やしたような気がした、もっと早く奴にこうさせてやればよかったのだ、もっと早くやつの存在意義というものを派手に笑い飛ばしてやるべきだったのだ―それが仮にどんなリアルも感じられないような白けた笑いであったとしても、やつはきっとそこに潜んでいる何らかの感情を捉えて俺の首に手を掛けただろう―言葉で無いものとコネクトしようとするときに何故俺は言葉など使おうと考えたのだろう?―腐臭に俺の息の根を止めることなど出来るはずが無い。俺には何故かそのことが判っていた。確信していた。そうとしか答えようが無い、それ以上のことは何とも説明出来ない…そのときすでに自分が白目をむいているのが判っていても、俺はそのことを疑いはしなかった、こいつに俺を殺すことは出来ない。確信だった。そこに理由は無かった。それはすでにそういうものだった。事実そういう風に流れるものに理由など無いのだ。そんな流れの中に理由など存在したことがはたして在ったのか?腐臭が俺を殺せないのは、そう―仕方の無いことだったのだ。俺には自分が死なないことが判っていた、だが、そのために自分がなにをすればいいのかということはなにひとつとして判ってはいなかった。だからじっとしていた。じっとしていると奴の感情の流れが細く硬い指先から光の粒子が浸透するように俺の体内に流れ込んでくるのが感じられた。そんなときの気分を言葉に変換するような真似は、もう、しなかった。それは言葉にするべきものではないのだ、それは言葉にしてみたところで、どこか座りの悪い奇妙なものになってしまうようなものなのだ―言葉にしないことが定義である場合だってある。

シャープペンシルの先をほんの一瞬画用紙の上に置いたときに出来る微かな濃度の点、俺の意識の構成がそんなものになり、次第に夢の様な現実の中へフェィド・アウトし始めたころ、腐臭の指先が不自然なほどに深く俺の首に食い込んだ―ように思えた。それと同時に、塞がれていた喉が突然開きしぼんでいた肺が急激に空気を取り込んで膨張した、そんな状態に対応することが出来ずに涙と鼻水を流しながら俺はむせ込んだ。床に這いつくばる形になった俺の眼前には腐臭の裸足の爪先があった…顔を少し上げると、妙にしんとした膝がふたつこちらを向いているのが見えた。俺はそのままの姿勢で何度か深呼吸をしてから身体を起こした。二、三度頭を振って狂った平衡感覚をリセットし、腐臭と向かい合った。

腐臭は、絶望という感覚を最速で伝えることが出来る表情で立ち尽くしていた。両の眼からは涙が流れていた。驚くほど透明な涙だった。さっきまで俺の喉を絞め上げていた両の腕は物乞いの様にこちらに差し出され―その先は手首から迷子になったみたいに消失していた。
「消える!」
奴はとうとう知ってしまったという様子でそう叫んだ。眼の中の陰がいっそう暗くなった。間に合わなかったのか、それとも…「そういうことになっていた」のか?俺はしばらく奴のことをただ哀れに感じていただけだったが、一歩踏み出して両腕を広げ、奴の身体をゆっくりと抱いた。
「すまなかった。」
俺の腕の中で腐臭は子供の様にしゃくりあげた。消えるんだ、消えてしまうんだ…か細い声で何度かそう言った。俺は奴の頭をぽんぽんと叩いてやった。しばらくそうしていると奴は泣き止んだ、そして臨終のときのような深い呼吸をし―



実体は消え、奴はほんのちょっと具現化されたイメージの様なものになった。両の眼は俺を見ていた。相変わらず無表情だったが、もうそこに暗い色は無かった。そして、テレビのチャンネルが切り替わるみたいにふっと消えた。かすかな感触すらそこには残らなかった。ああ、と俺は思った。








成就とは、この世で最も哀しい出来事の中のひとつなのだ。






【完】




散文(批評随筆小説等) 沈黙の内側、ダイヤグラムは途切れたものばかりで体裁を整えている(6・完結) Copyright ホロウ・シカエルボク 2008-01-22 22:57:09
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