体験の共有
相良ゆう
時と場所を同じにすることで私たちは同じような体験をすることができます。一緒に学校に通った、一緒に映画を見に行った、一緒に買い物に言った、遊園地に行った、レストランに食べに行った、などなど、私たちは時と場所を同じにすることで同じような体験をすることができます。しかしこの状態では体験を共有したとはいえなさそうです。確かに同じような体験をしていますが、それを共有するとはどういうことでしょうか。
私たちが何かを理解したり、把握したりするときに必要なものは感覚です。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、などと機能や性質によって分類されたりしますが、それは接触可能なものを接触不可能なものへと変換する変換機でもあります。つまり感覚は物質的なものを精神的なものに変換するのです。そして精神的なものに変換されたものを言葉などの記号を使って概念的なものに変換することが、表現という行為なのです。と説明することができそうです。
感覚が物質的なものを精神的なものに変換し、さらにそれに言葉などの記号を付与することによって精神的なものを概念的なものにすることで、私たちはやっと体験を共有することができます。なぜなら時と場所を同じにしたとしても、そのときに何を感じ、何を思い、何が起こったのかを共有することができなければ、体験を共有したとはいえないからです。
私たちは日常生活やその他の様々な場面で、様々な言葉に出会います。言葉、つまり精神的なものが概念的なものに変換されたものに触れ、それが何を指し示し何を意味しているかを、自身の体験を通して学んでいきます。そのような体験が蓄積されていくにつれて、自分の中の精神的なものと概念的なものとのつながりは次第に強くなり、認識は整理されていきパターンを形成します。人が精神的なものを概念的なものに変換して表現しようとするときには、毎回毎回異なる表現をするよりは、似たようなパターンの表現を使ったほうがそれだけ伝えやすくなりますし、理解や把握もしやすくなります。たとえば喜びという精神的なものを表現する概念的なものは「嬉しい」という言葉でしょう。そして喜びという精神的なものを表現する物質的パターンとして最も典型的なものは「笑顔」だと思います。他にも口調や動作等も精神的なものを表現する物質的なものといえるでしょう。
しかしこれだけでは彼がどの程度喜んでいるのかを知ることは困難です。彼がどの程度喜んでいるかは、彼の喜びの表現の強さと他人の喜びの表現の強さとを比較しても分かりません。彼がどの程度喜んでいるかを知るためには、彼の表現が彼の表現と比べられなければなりません。そのためには彼の喜びが表現された時に、「何度も」その場に一緒に居ることが必要です。そしてできる限り多くの表現を受けとることが必要です。それ以外に他人の精神的なものの程度を量るすべは私たちにはありません。精神を共有することができたなら彼の喜びも悲しみも直接知ることができるかもしれませんが、それは不可能です。
精神は共有することができない。けれども私たちは体験を共有することができています。それは言葉などの記号のおかげです。物質的なものを精神的なものに変換し、さらに概念的なものに変換することによって表現しそれを共有する私たちは、その表現された概念的なものを再び精神的なものに再構築することによって、他人との体験の共有を実現するのです。体験の共有とは概念の共有であり、精神の共有ではありません。体験の共有についてはこんな感じに説明できそうです。
精神の共有は難しいとしても、体験の共有は記号によって曲がりなりにも可能であることが分かりましたが、自分の体験を深めるとはどういうことかなとふと不思議に思いました。でもすぐ答えは出てきました。それは多くの変化を体験することです。社会生活は奇抜な変化をなるべく避け、パターン化することによって円滑に活動されるようになっています。それはつまり体験の機会と可能性を限定しているということですから。
そしてもう一つは、やはり既成概念にとらわれ過ぎず、物事を精緻に分析して概念的区別を細やかにすることでしょう。それはもう、自分の精神と言葉とのやり取りを深めるということにつきます。変化の体験を増やすことで精神を機敏にし、多くの言葉に結びつけることで内容を豊かにする。これが深めるということなのでしょう。文学や芸術の素晴らしさはここにあるような気がします。表現者としても読者としても豊かになりたいです。
またまた支離滅裂になってしまいましたが、ここまでご精読ありがとうございます。