応接間の < 琴 >
ましろ

阪神大震災から13年だそうです。
お昼のニュースで知りました。
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この地震は私にはほとんど関係がない。
「ほとんど」ということは少なからず関係している。
たった今 気がついた。

5回?だけ会話を交わした父方の祖母は、私が中学生の時に死んだ。

「この人はまたえらい 縮れ毛やねぇ!みたことないわ。誰に似たんやろねー」
そんな風に言う父そっくりの、縮れ毛の祖母が嫌いだった。
「お婆ちゃんと一緒よ」なんて
抱きついていく天真爛漫とは対局の、髪の毛のようにひねくれた子供だった。

遠くに住んでいる祖母と、新潟の佐渡島に船で旅行へ行ったことがある。

それから何年か経って、
私の住む街、横浜中華街の高級料理店*萬珍楼*でも会った。
関西からわざわざ出てきた祖母の
疲れも・知らない大きな港町への気後れも・喜びも憶えていない。
印象に残っているのは「鯉の美味しさ」。
鯉なんて食べたことも食べられるモノとも思っていなかった。
こわごわつつくだけの私に、母がやさしく「たべてごらん」と促した。
ぱくん。
ふわふわでとびっきりおいしかった。
たくさんたくさん食べた。
みんなで「おいしいね。おいしいね」と言って食べた。
鯉の頭。豪華な異国のテーブル。壺。椅子。ソファ。
父も奮発したのだろう。
もちろん、祖母も美味しいと言っていた。

あれから時が経ち、大人になって自分の稼いだお金で何度か萬珍楼へ訪れた。
やはり、料理も絶品でレストランの外観も室内も豪華だった。
けれど、確かにここに祖母ときたように万華鏡の中には入り込めなかった。

13年前、芦屋の家は壊れた。
潰れたわけではないけれど歪んでしまったらしい。
祖父も祖母も死んだ後で、誰も住んでいなかったからどうということはなかった。

芦屋の家には3回程行った。
洋風の応接間。
真っ暗でだだっ広い2階の寒い部屋で寝るのが怖かった。

応接間には琴がおいてあった。
洋風の部屋に日本の楽器はしっくり収まっていた。

そっと布の上から琴を触った。
「これなあに?」
「おこと」
祖母はそう言って、さっと布を取り
袖をまくり上げ、爪に大きな爪のようなものをつけ
正座になって弾いた。

〜さくら さくら 
  のやまも さとも みわたすかぎり
  かすみか くもか あさひに におう
  さくら さくら はなざかり

 さくら さくら 
  やよいの そらは みわたすかぎり
  かすみか くもか においぞ いずる
  いざや いざや みにゆかん     〜

私も少しだけ祖母の真似をして弾いてみた。
「習ったらええがな?」と音にひかれて集まってきていた
親戚のおじちゃんの誰かに言われたけど恥ずかしくて逃げ出した。


祖母の葬式を終えて、
芦屋の坂道をぐんぐんいとこのお兄ちゃんの車で昇っていった。
どこまでもどこまでも。
急な坂道には信じられないほどの豪邸がいくつもいくつも現れて
火葬場は天にあるのだと思った。

それから暫くして母から聞いたことがある。
「芦屋のお祖母ちゃんね、
お爺さんに毎月決まった額だけを渡されて
息子三人も抱えてもぅ二進も三進もいかなくなって
うちのお父さんだけ連れて踏切に飛び込もうと思ったことが何度もあったそうよ」

祖母の家は、丘のずっと下にあって 天にはほど遠かった。
それでも父は、年の離れた兄二人と怖い父と芦屋のあの家で母に溺愛されて育った。
祖父が建てた夢の家。「芦屋」に拘り守り通した祖母。

あの琴はどこへいってしまったのだろう?
一度、母に尋ねたことがある。

散り散りになり誰も住まない歪んだ芦屋の家は、解体され財産分割された。

琴の行方を追うつもりはない。
ただ もう 音を弾くことはできない。


散文(批評随筆小説等) 応接間の < 琴 > Copyright ましろ 2008-01-18 15:52:06
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