自己実現
相良ゆう
久しぶりですが、短く書きます。
人の一生のほとんどを費やして行われることは自己実現です。
人間の本質は自己実現に尽きるといっても過言ではありません。と思います。
自己実現とは自分の理想を実現することです。
目標を達成することも、ノルマを達成することも、義務を果たすことも、責任を果たすことも、権利を主張することも、自由を謳歌することも、すべて自己実現につながるものです。
人の一生は自己を実現する方向に向けられています。人は不思議なほど自己実現に魅せられています。例え自分の理想とはほど多いと感じる状態にあったとしても、そんな状態を与えた環境下にあっても、それでも人は自己実現を試みます。
善悪の設定も自己実現の一つです。突拍子も無いですが、まあ聞いてください。
人がなぜ善と悪を設定したのかについて、私的な考えを述べますが、自分自身が善でありたいと考えている人が居たとして、その人の自己実現はもちろん自分が善になることでしょうが、そのために自分以外の誰かもしくは何かが、善でないものであってほしい、という欲望のために、善は存在するのではないか。そして善でないものの内、最も善という状態から離れているものを、悪と設定したのではいか。
自己実現を本質とする人は、悪を設定するために善をつくり、善をつくりそれを我が物とすることによって自己を実現しようとするのではないか。それが繰り返されて、あらゆる自己実現のためにつくられた善が積み重なって今が在るとすれば、人の歴史はあらゆる善の歴史、自己実現の歴史であるといっても過言ではないように思います。
その証拠に、社会はいつまで経っても改善されているようには見えません。少なくとも私には善いところもあるけれど悪いところも依然としてあるとしか、言いようがありません。おそらくどれだけ時代が進んだとしても、この最も中立的な立場は変わらないのでしょう。ご都合主義ともいえそうですが。
まあそれはそれとして、今の社会の善いところは? と聞かれても、まあ他の地域等に比べて少しは安全かな? くらいしか答えられないかもしれません。人によっては、物は何でもあるし、快適に暮らせるし、安全だし、食べ物にも困らないし、娯楽もたくさんあるし、周りの人はいい人ばかりだし、悪いところもあるけれど、凄く善いよ。 本当に素晴らしい社会だよ! と答えてくれるかもしれません。
でももしかすると悪くなるばかりだと感じたりする人も居るかもしれません。不正や汚職は当たり前だし、殺人が止むことはないし、病気だってなくならない。これは個人的なことかもしれないけれど、働いても働いてもお金は貯まらないし、生活は全然楽にならないし、重い病気や怪我を煩って日常生活に支障もあるのに誰も助けてはくれないよ。どうして善い社会だといえるの? と不満を口にされる方もいるでしょう。
善くなりたい人も、もうすでに善いと感じている人も、居るでしょう。しかしそれらをいろいろ考慮したうえでなお、まだまだ改善されていないと感じるとしたら、それはそのぶんだけ善くなりたい人が居るから、あるいは善くなりたい、善くしたいという思いが強いからなのではないかと思うのです。善くなる必要があるから、ますます悪くもなるのです。ちょっとひねくれた見方でしょうか。
善い状態を求める人が多くなったということは、善くない状態を、悪い状態を受け入れる人が少なくなったと表現してみます。今までは我慢していたものを我慢しなくなったとも言えるでしょうか。羨望の対象を我が物にする欲望を我慢しなくなった、自分が理想の状態を得ることに貧欲になった。自己実現を我慢しなくなった、すなわち自己実現欲がつよくなったとも言えるでしょう。人間の本質が強められている。本能がむき出しになってきているともいえるかもしれません。理性的人間という西洋の哲学者とかが唱えてきた理想の姿がどのようなものか、このことから少し示唆できるかもしれません。ストイックに生きることを美徳とする人はなぜその生き方を選んだのか。欲を禁ずるということはどのような欲を禁じてきたのか、それを考えるよい機会になればこの駄文を書き綴った意味はあったと思います。きっと途中で読み捨てられてしまっているでしょうが。
と、まあこのように善悪について考えていたら、人の本質は自己実現にあると表現するにいたったわけですが、こじつけに聞こえるかもしれません。でもそれはそれで真実でしょう。きっと私とは異なる環境の下、異なる価値観や考え方を育んできた人から見れば、こじつけ以外の何物でもないでしょうから。
さて、短くするつもりが長くなってしまいましたがまだまだ考えを進めていきます。
では自己実現をやめてしまえば、人は善悪から解放されて新しい視点を得ることができるのでしょうか。
しかし善悪の判断をやめるということは、思考を停止することでもありそうです。思考が停止された状態がどのような状態なのか私には見当もつきませんが、生物学的に解釈すれば、脳の機能が失われることとでも言えるのでしょうか。だとすれば確かにそれは善悪から解放されているようでもあります。しかし一般的な解釈をするならば、判断を放棄するということになるでしょう。それはどういうことかというと、想像に難くないですが、自分がすべてであり、自分が常に中心であり、自分が絶対であるように振舞うということ、すなわち自分勝手になるということでしょう。
自分勝手な振る舞いはよくない、とはよく言われる陳腐な言葉ですが、こうして考えてみると中々に意味が深いものであったと解釈することができそうです。なぜ自分勝手はよくないのか。それは社会的判断を放棄した状態だからです。社会的判断を放棄するとは、自分はその社会の成員ではないと自ら宣言しているものと解釈することもできます。それはすなわち、お前らの言うことは絶対に聞かないぜ、という反骨精神の表れでもありますが、村八分という人にとって恐ろしい状況下に追いやられるリスクを背負うことでもあります。なぜなら社会的判断を放棄した人によって殺人や暴力は引き起こされると表現できるからです。危険因子は排除するのが社会が存続するための常套手段です。社会が存続することが人が理想を実現するための前提であるなら、村八分も人の自己実現という本質が選んだ自己防衛の業なのかもしれません。こじつけですが。とにかく自分勝手であるということは自分が個人的理想を優先して追求する自由を得る代わりに、自分が社会から排除される危険性を持っているのです。そしてその危険性を戒めるために、自分勝手はよくないと昔から言われてきたのでしょう。とまあこんな解釈もできるわけです。ありきたりでしょうか。でも社会を存続させる、ひいては自己実現の欲求のためには大切なことであることが分かります。
独りで居るほうが楽だと感じている人が増えているような気がします。けれども日本という社会から弾き出されるのは恐い。社会の構成員でありつつ、社会に住みつつ自分勝手に生きることはできないものか。それが独りになることなのでしょうか。かくいう私もその一人なのですが、それは私が自分勝手になってきているからだと思います。社会にとっては非常に危険な存在ですが、独りでいることによってそれを隠すことができます。独りでいることは必ずしも物理的に隔てられた状態を必要としません。心を閉ざすという言葉もあるとおり、概念的、観念的に隔てられた状態でも、人は独りでいることができます。この状態ならば、他者との交流を継続しつつ、独りでいることができます。この状態であれば、物理的にも観念的にも独りであろうとする、いわゆる引きこもり状態にならずに済みます。ただ、そのためにはどれだけ嫌でも、我慢してでも社会的交流を継続しなければなりませんが。
しかしこのような恣意的につくられた独りの状態は真の孤独とは程遠いものであることは言うまでもありません。いじめによる孤独や海外の生活で感じる孤独とは比べるべくもありませんし、これはあくまでも自分に都合のいい状態を仮に実現するための一手段でしかありません。それが自分に不都合な状態を引き起こすことも充分に考えられます。
人の本質は自己実現にあるといいましたが、その自己実現にも類型があるように思います。つまり人はどのような自己実現に向かう傾向があるのかという大まかなカテゴリー分けができるのだと思います。それは人が何を善であるかと設定するかによるのだと思います。不正を正すことを善とする人も居れば、正義を守ることを善とする人も居るでしょう。自分が達成したい目標に向かって邁進し、成功を収めることが善であるとする人も居るでしょうし、自分が特別に何か行動を起こさなくても自分以外の誰かが自分にとって都合のいいように動いてくれることが善であるとする人も居るでしょう。また自分の都合のいいようにことが運ぶことを善とする人も居れば、社会のために他者のために役に立つことを善とする人も居るでしょう。カテゴリーの例を挙げれば、能動的・積極的な自己実現がある一方で、受動的・消極的な自己実現があり、個人的自己実現があれば、社会的自己実現もあるという感じでしょうか。他にも分けようと思えばそれこそ星の数だけあるでしょうが、それは自分で考えて感じて、体験や読書を参考にして、自分の納得いく分け方で整理して、ある程度共通の言葉で説明できるようになることが大切だと思います。私は説明が苦手で申し訳ないですが。
自己実現の欲求について話してきましたが、かなり脱線もしましたし、支離滅裂になりました。構成も何も考えずただ思うままに筆を進めた結果ですが、満足です。ただ此処まで読んでくださった皆様には申し訳ないです。ありがとうございます。でも最後に言っておきたいのは、自己実現の欲求の表出の仕方についてです。自己実現の欲求は理想の自己を表現することによって表出します。理想の自己をその通りに表現することができれば、それは理想的な自分であるでしょうが、中々上手くいかないのが現実の厳しいところです。しかし自己実現は自己表現という形で現れます。自己実現=自己表現です。そして自己表現は常に行われていることに注目してみてください。あなたが自己を表現しない日は無いはずです。たまに自分ではそのつもりは無いのに表現したことになっているときもあったりしますし、上手く表現できなくて思い通りに伝わらなかったりしますが、私たちは常に表現する生き物です。そして表現するということが外へ向かう性質を持っていることが非常に重要です。外へ向かうのはなぜか。それは伝えたいからです。表現されたもの、私たちが表現したいものが、私以外の誰かに伝わる可能性があるということ。それが人の可能性であり、文学や芸術の可能性であり、またその表現されたものが、誰か他の人の理想や夢の顕現されたものであったり、理想や夢そのものとなるところに、人の可能性の深みがあるのだと。しかし同時に、表現が外に向かうという性質を持っているというのは、自己実現のために犠牲となる他者が必要であることを意味します。人の優しさと残酷さは、やはり結局は人から出でて、人に帰るものなのでしょう。人以外にその表現されたものを受けとるものがいないこと、そして人が人を含めたあらゆる他者を自己実現の道具として利用する性格のあることが、悲しい孤独な人という存在をさらに際立たせているようです。人は悲しいからこそ優しいし、醜いからこそ美しい。それが今日私が悟ったことでした。おしまい。ご精読ありがとうございました。