まなざし、不可知、忘却
ケンディ

雲ひとつない産業的な快晴だ。
その空に向かってタバコの煙を吐き出す。
炎症した気管支の血の味も心地よい悲劇性を放つ。
今日も工場の地響きをバックグラウンドにして、
レクイエムをこのまなざしで奏でたい。

まなざし。そういえば私の友達が死ぬ前に、
病院のベッドの上から私を熱心に眺めていた。
病的な、熱心なまなざしで、
「もし生まれ変わったら」を語り続けていた。

ちょっとこの友人について話しておこう。
彼はすでに、脱-境界的な存在だった。
生と死の境界、
皮膚の外側と内側の境界、
彼と私の境界。
そして、現実と神話の境界。
それが崩れ去っていった。その
境界の脱落(とつらく)を、私は
憂いに満ちたまなざしで眺めたものだ。
そのときの私のまなざしは、
憧れのまなざしだったのか、
畏怖のまなざしだったのか。それは
私には決して分かりようがない。
彼にも分からない。だが、私も、彼も
「分かった」と言う。
私はイメージする。酔いしれて文脈断裂的に
語る不治の病の彼は、境界の鎖を
断ち切ってラッパを吹き鳴らして
花びらと戯れる半神で、
私は冬の土壌を憂いに満ちたまなざしで
見つめている農婦だ。

ところで、なぜ私自身のまなざしの意味が
私に分からないのかだって?
そして私のまなざしを眺めている彼にも、
私のまなざしが分からないだって?――君は
そう思うのだろう。だが、
そのとおりではないか。私の体をどう
細切れにしたって、私のまなざしの
意味など出てこない。私の感覚など無い。
存在しない。人間と名づけられた
哀れな二足歩行機械たちが、
無を精神、心、愛、意味などと名づけていったに
過ぎないのだ。それは彼においても同じだ。
彼はすでに、ただ「来世」等の音声を生産する
自動装置なだけだから。ただ、彼と私の間に渦巻く
「関係」が、私のまなざしの「意味」を定型コードに
則って規定するだけだ。関係たちは奏でている。
ペトラルカの詩、il Canzonierenoの一節、
Tutto ‘l di piagnoを。これを彼は知っていた。
いや、彼も私も何も分からない。痛み、恥らう「心」などは
存在しない。ただ、関係だけが揺らめき、蠢く。
それを私たちは誤解して、「彼は分かっている」
「私は感じている」という形態にする。

彼はもう死んだ。全身を病に蝕まれていった。
私は彼に戒名をつけた。彼の戒名は、
iWx/qZqだ。ここには何があるか?
読ませないという目的がある。どのようにして
読ませないようにしているか?
子音しかないからだ、といいたいが、
頭にiという母音がついている。それはなぜか?
上記目的を一言で言わせないためだ。
つまり、最初にiがついてしまっているゆえに、
彼の戒名を読ませないという目的の説明も
一段と面倒なことになる。こういった二重の仕組みが
入ったパスワードが彼の戒名であり、
人々はきっと彼の戒名を沈黙をもってして呼ぶだろう。
そして、急速に忘れていくだろう。忘れさせるのだ。
それゆえに彼の戒名は
強い刻印を残す――沈黙と忘却の領域において。


散文(批評随筆小説等) まなざし、不可知、忘却 Copyright ケンディ 2008-01-09 19:32:30
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