忘れもの
恋月 ぴの

何をどこに忘れたのですか?
駅の係員は開いた記録簿に目を落とし尋ねた

普段から乗りなれた通勤電車
それなのに今夜は何かが確かに違っていた
勧められるまま飲んでしまった新年会
赤ら顔の同僚たちとは新宿駅で別れ
わたしひとり郊外へ向う特急電車に乗ったはずだった

黙っているわたしの顔を見上げるようにして
駅の係員は事務的な声で再び尋ねた

何をどこに忘れたのですか?
この駅に着いたのは何時頃で何番目の車両でしたか?

わたしの忘れたもの
覚えている限りでは網棚に乗せたはずで
午後十時過ぎにこの駅へ着いた特急電車の3両目あたりでした

それで何を忘れたのですか

このぐらいの大きさでハートの形をしています
わたしは手を広げ係員に大きさを示した

それなら既に届いていますよ
係員はわたしの前に忘れものを差し出した

それは本当にわたしが忘れたものなのか
どこがどう違うのか上手く説明出来ないけど
違うといえば違うような気がする

はいはい確かにこれですよね
係員は一件落着早く出て行けとばかりに
それをわたしに押し付け再び記録簿に目を落とす

急かされるまま一礼して駅務室のドアを閉めた

良く晴れた日の晩はきりきりと骨が軋むまで冷え込む
駅の係員から押し付けられた忘れものを抱え
わたしの暮す町へわたしを運んでくれる最終電車を待っていた

これは絶対にわたしのじゃ無い
冬の月明かりに照らされたそれは若々しく輝いて
それまでの疑念は確信へと変った

わたしのは張りも無いし色はくすんで濁っている
それに比べこの透き通るような色艶と張り
この機を逃したら二度と手に入らない

わたしは誰かの忘れものをコートで隠すと
駅の改札口から一目散に逃げ出し
やがて人影の絶えた多摩川の土手上へと彷徨い出た

わたしのも以前はこんな感じだったんだけどねえ
あの楊貴妃の気持ち少しだけ判った気がする

赤いタートルネックのセーターをたくし上げ
世間一般には夢とか希望と呼ばれている誰かの忘れものを
早くよこせと口を開いた心の奥深く押し込んだ




自由詩 忘れもの Copyright 恋月 ぴの 2008-01-07 21:39:40
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