「スウプ」と「ちくわぶ」
渦巻二三五

芳賀梨花子さんの『Is it good or not?』http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=78の「スウプ」
ねぇ、そろそろ、好き嫌いばっかり言ってないで、ママの味を思い出すべきなのよ。毎晩温かいスウプが飲める、ありきたりのテーブルを守ることにこそ意義があるのよ。そうは思わない?


いとうさんの『ハピネス』http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=138の「ちくわぶ」
ちくわぶの空の上にハピネス。
私たちが想像するその空の上
そこにどのような概念があろうと
それはフィクションであり実在の人物及び団体とはいっさい関係ありません


うーん。うーん。
と考えています。
(2003.5.14)


梨花子さんもいとうさんも、その書かれた数々の詩作品における話者の性格というか、世界を見る心理的位置はおおむね一貫していて、まったく両極であるように思う。
私自身はどうかというと、そのどちらにも寄れずにいます。
梨花子さんのように「スウプ」のことを言ってみたいと思う気持ちはあるけれど、実際にそうしようとすれば、邪な気持ちが入り込んでしまいそうで、変に道徳的になってしまうような気がします。

いとうさん(の詩の話者)のことを、私は「見殺し屋だ」と言ったことがあります。山田せばすちゃんさんは、それをもっと素敵に「深い純水を湛えた洞窟でそっと、ニュートリノと水分子が衝突するわずかな小さな光を電光管で拾い集めるあのカミオカンデに似た」と評しておられました。
私は、いとうさんは自らの要請によって(好むと好まざるとに関わらず)観察者の位置を固持しているのかとずっと思っていました。
『ハピネス』は、
世界にじかに触れることはできず、自分は観察であるしかない。それはどうしようもなくそうなのだ。
という、そのこと自体をいとうさんがたぶん初めて詩でもって(明確に)訴えたものなのではないかと思いました。
(2003.5.16)


どちらの詩にも「戦争」という言葉と、その、遠くのつかみきれない出来事を考えるにあたって食べ物が出てくる。そして、神様。

食べ物。
世界の手触りを得ようとして、でもそれが虚しいときも、食べ物は現実と生きている自分との接点を一番実感させてくれる。あまりに哀しかったりして、食べることも思いつかないようなときでも、ともかく何か口に入れてみると、ああ、私お腹が空いていたんだ、とわかる。それと気がつかなくても、寂しいときにお腹が空いているといっそう哀しくなってしまうのだ。祖母の葬儀のとき、お参りに来た人たちに一日中絶えることなくあれやこれやと食べ物が供されていて、私は、これらの食べ物がなかったらどんなにか寂しい思いをしなければならなかったろうと後になって思った。

『Is it good or not?』の「スウプ」が現実世界と自分との最も身近な接点、日常の肯定であるなら、『ハピネス』の「ちくわぶ」は何なんだろう…。
どうして「ちくわぶ」なのか。
ちくわぶはちくわの似せものだ。似せものだけど、「スウプ」のように親しい食べ物。親しいけれど、似せものだ。
その似せもののちくわぶ、の空の上に「ハピネス」があるという。
(2003.5.17)


地獄と極楽。
梨花子さんの「スウプ」には極楽の入り口が見えるような気がする。と同時に、この「スウプ」のために地獄へ堕ちることもあるかもしない、と思わせられる。
いとうさんの「ちくわぶ」には極楽はない。地獄もない。
現世にじかに触れることがなかったら地獄も極楽もないのだろうか…
でも、触れることができない、という「地獄」であるのかもしれない。すでに。
(2003.5.20)


戦争という異常事態を観て(マスメディアの報道によって)反戦の気持ちが表現された詩や文章を幾つも目にしました。
直截的に武力の行使を批判するものの他に、日常生活を強く肯定する詩や文章が多くありました。
戦争という異常事態に対して、日常の卑近な事物を持ち出し、日常の強い肯定によってそれを破壊する行いを批判する。
人間が誠実に日々を暮らしていくということを強く肯定したい気持ちは私にもあります。
けれども私は、それらの詩や文章を読んでも、どうもなにかすり替えられたような、言いくるめられたような気持ちになることがしばしばでした。
共感を呼び込もうとするあまり、強く肯定されるべき日常、つまり平和の象徴としてふさわしいような(虚構の)日常が前提として描かれているのではないか…
今この文章を書いて、自分の心のなかにひっかかっていたことは、そういう「疑い」ではなかったかと思いました。

『Is it good or not?』も、日常の事物を持ち出し日常を肯定しています。でも、私はこの詩には先に述べたようなわだかまりは感じませんでした。
それはなぜなんだろう、とずっと考えていて、ようやく気がつきました。
私は、「スウプ」に混沌としたいかがわしさを感じていたのです。誠実と無垢だけではないのが平和な日常なのです。
肯定されるべき日常の事物は、日常のなかにあって常に善であるとは限らない。それでも肯定する。
同時に地獄への入り口であるような極楽への入り口を、私は「スウプ」に見たのだと思います。
(2003.5.21)


「シュレディンガーの猫」を殺さないために、その死を決定づけるのを避けるために、世界に触れない、のではないですか? いとうさん。
観察者であるということで、それを決定してしまうとしても。それさえも罪であると思ったとしても。
(2003.5.22)


『Is it good or not?』
私は目を伏せて何も見ないように、探っている毛深い腕に何も感じないように、ただ、時が過ぎていくことを数えていたの。野蛮なおこないってこういうことなのよね。本当なら指の動きや心の動きを、きちんと理解して享受しなくてはいけない。そういうのが愛の行為のはずなのに、ねぇ、何もかも諦めてしまう私は、こういう事態を受け入れている?受け入れていない?でも、確実に野蛮なおこないの犠牲になっている人がいる。


『ハピネス』
今思うとどこかに破片が刺さって、だから真っ赤で、でもだんだん黒くなって、手で押さえて、押さえているのにウンム、ウンムって砂煙が舞い上がって、傷口が見えません。前が見えません。今も見えません。

(2003.5.24)


どちらの詩にも、抗うことのできない暴力に遭う場面が描かれていて、その場面の話者は目の前のことを見ていない、ということが書かれています。
あまりにも酷いその惨状というべきものを、「見ない」「見えない」…。あってはならないことであり、目にしたくはないもの。
『Is it good or not?』の話者は、見ないようにしたのだと言います。そして「本当なら指の動きや心の動きを、きちんと理解して享受しなくてはいけない」と念を押して、見なかったのは自分だったというのを明らかにしています。
『ハピネス』の方は、この場面の話者は、自分が「見ない」のではなく、それは見ようとしても見えなかったのだと言います。
見ないようにしていたのも、見ようとしても見えなかったのも、それぞれ理由は納得のいくものです。
けれども、ここにも、作者の世界との関わり方、世界と関わる自分について、が表されていると思います。

それにしても…それが、暴力に遭う場面であったのはなぜなんでしょう…
そのようなときにこそ、世界との対面の仕方が最もよく表れる、ということなのかもしれません。
(2003.5.28)





散文(批評随筆小説等) 「スウプ」と「ちくわぶ」 Copyright 渦巻二三五 2003-05-14 12:13:43
notebook Home 戻る