エトランゼの行方
パンの愛人
田村隆一がいうには、金子光晴の詩の上手さを最初に教えてくれたのは鮎川信夫であったという。
ここでは金子、鮎川のふたりに共通すると思われるある種の感性、
――はじめに種明かしをしてしまえば、ぼくはそれを「エトランゼ」という語であらわすだろう――
そして逆に両者の間にみられる相違点を、ごくかいつまんだ形で素描してみたいと思う。
というわけで、以下はあくまでスケッチにすぎない。
まずは鮎川の「1948年」という詩を引用してみよう。
ウイスキーのレッテルには
1886と書いてあった その年から
ぼくの悩みは始まっている
いちどは犯罪許可証を懐中にして
とおいシンガポールの街を歩いたこともある
青空の下で
パスカルの読み方を教えた青年が戦死し
それでもぼくらが生きているとは信じられなかった
戦争嫌いのドイツの作家が
ぼくらに一枚の絵皿を見せたことがある
1850と書いてあった その年から
ぼくはエトランゼであったし
何処へ行こうと
ぼくの知ったことではなかったのだ
ある日 ボートを水にうかべ
自殺したぺーペルコルンのことを考えていた
トバ湖は凪いでいた
櫂はぼくに全身をあたえ
力が判断と緊張をしっかりと両足にむすびつける
鳥はいないし まして人影はない
彼岸はいつも死の国のように静かである
ぼくは知っていた
夕日があかあかと上着の肩をそめ
世界を冷やかす月光がぼくの額を照らすのを……
マニラ郊外のドライブウェイを疾走しながら
ぼくは笑ったことがあった
雨のキールン港では
泣いたこともあったかもしれない
東京の街角では
ぼくはぼくである一切のものを否定するのだ
1948年 これは
レッテルでもなければ 絵皿の風景でもない
罪によってうまれ
憎悪と欺瞞と屈辱によって生活し
暗い夜明けのうちに倒れなければならぬ
ながかった一世紀が終わろうとしているのに
悲惨なぼくの黒い帽子と
黄ろい指先のシガレットの煙よ
はかない幻影よ
今日も
河は山をのりこえ
文明のなまぐさい鮭は
大挙して街中でなつかしい歌をうたっている
「自殺したぺーペルコルン」は「魔の山」の登場人物であるから、
「戦争嫌いのドイツの作家」とはトーマス・マンのことかもしれない。
そういえば「魔の山」には主人公ハンス・カストルプが絵皿を見せてもらう場面があったはずで、
しかし「1850と書いてあった」かどうかは思い出せない。
また、詩の最終部はWHオーデンの詩句を下敷きにしている。
その他にも、文学作品からの引用があるかもしれないが、その辺はご教示をたまわりたい。
ところで、鮎川は後年アメリカに関する書物を何冊も著すが、実際には戦時に兵士として外国に行ったことがあるだけで、
戦後は一度も国内から出たことはないという。
この点では長年アジア・ヨーロッパを放浪した金子とは決定的な相違がある。
しかし、鮎川は「戦中手記後記」で「戦争に行く前すでにロースト・ジェネレーションであったかも知れぬ」
そして「日本と切れていた」という堀川正美の論をみずから首肯している。
次に金子の「エトランゼのゆくえ」と題する散文の一部を引用してみよう。
僕は、ついに、自分をエトランゼという名でよぶことにした。
僕なりの苦労もしてきた末のことだ。日本人でありながら、日本の政治、経済、国勢の伸張、国家的義務など、
いっさいに、注意も関心ももたない人間は、異邦人でしかないという考えは、自分としても、
ある爽快さを味わうことができたからだ。
金子、鮎川、両者に共通してみとめられるのは、社会批判者としてのたたずまいである。
金子は象徴詩の、鮎川はモダニスムの、といった若年時に影響をうけた詩のタイプは年齢相応に異なるが、
ともにその芸術至上主義から脱して、より実社会へのかかわりを強めようという意図が感じられる。
しかし、かといって抵抗詩人ないしは思想詩人という呼称はかれらにとって不完全なものでしかないだろう。
実際にかれらの詩を読んで一番つよく印象づけられるのは、両者とも徹頭徹尾、抒情詩人であるということだ。
とくに鮎川の場合、戦後に書かれた詩論と実際の詩作品を読み比べてみると、
誰しも意外さというか、なにか違和感を覚えるのではないかと思う。
また、金子にはニヒリズムが、鮎川にはペシミズムが気質として感じられるが、
一般的ない意味でのニヒリズムやペシミズムでは汲み取れない部分が多いと思う。
個人主義者、あるいは現実主義者というのも一面的な見方でしかないと思う。
かれらに社会批判を可能にしたのは、社会へのめりこんでいく態度ではなくて、
逆にそこから一歩引いた視線を持ち合わせているという特質から来たものではないのだろうか。
これは求道的精神というのともまた違う。
ここで金子の「詩人」と題する散文を引用してみよう。
僕のやりたいことは別にあって、その機会は永久にのがしてしまった。
文学者や、芸術家でいくらえらくなってもしかたがない。政治家や、軍人でもない。商人でも、冒険家でもない。
僕はただ、絶代の美貌にめぐまれて、それが衰えぬ若さのあいだに死にたかったのだ。
それならば、恋愛すらも、不要だったのだが。
「絶代の美貌にめぐまれて、それが衰えぬ若さのあいだに死にたかった」というのは
世紀末的な倦怠感と読むことができる。
しかし、死に損なった人間の、あとの人生は余計であるという認識が表明されていると読むこともできる。
つまり、自分は余所者であるという感覚である。
余所者―それはまたエトランゼに与えられたひとつの資格である―の視点が、
かれらに現世の政治経済諸般にたいする批判の目を提供したのではないだろうか。
ところで、戦後に書かれた鮎川の詩や散文を読むと、そこに驚くほどのクリスチャニティがみとめられる。
(「カソリシズムとコミュニズム」といった文章も書いていたはずで、ただしこれはTSエリオットに示唆されたものだろう)
金子には「IL」というキリストと山之口獏を重ね合わせた詩集が存在するが、
両者の宗教観には相当の隔たりがあると思う。
そしてなんといっても両者における女性観の差異である。
この辺はまた別の機会にするとして、以下つづく。