七人の話 その3
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 厨房で、秀人と仁乃が二人、食後のかたづけをしていた。仁乃は台所で食器を洗い、秀人はキッチンテーブルについている。
「あの子たち、今日は外のノイズが薄いとか言っていたね。ノイズが濃いとか薄いとかが、わかるみたい。私にはノイズの違いなんて、分からない。窓から外を見ても、いつもと同じ暗がりにしか見えない。ねえ、違いがわかる?」
 仁乃は洗い場で皿を洗い、洗った皿をカゴに立てかけていく。
「俺にもわからない」秀人は濡れた皿をカゴから取って、ちょっとずつ回しながら、布で拭き取る。「俺たちには、ノイズは単にノイズでしかないもの。窓の外を見やることすらしない。ムツオとナナコか。あの子らは、ものごころつく前からここにいて、ずっとここで育ったからな。もう九才だっけ。初めてここに来た頃、俺たちはちょうどそれくらいの年齢だった。実際、あの子らは、俺たちに見えないものが見えたり、俺たちには感じられないものが感じられるのかもしれない」
「ジェネレーション・ギャップ? イヤだな、そんな年の差でもないのに」と、仁乃は苦笑した。
「常識的には、一世代ってのは十五年くらいの間隔だそうだけど、ここではそんな時間のサイクルは通用しないんだろうな」
 そういう秀人は十七才、仁乃は十六才。この二人が、屋敷の七人の最年長者である。
「午後はどうしてるの?」
「昨日の続きだな。水星棟の九階から。順に降りてくる」
「そう」
 秀人の日常的な仕事のひとつに、屋敷の部屋を見てまわることがあった。その目的は、屋敷の廃墟化を予防することである。
 屋敷において、長いこと使われない部屋は廃墟化する。廃墟化とは、ある部屋から、そこで生きた人間の体温、ぬくもりが失われ、無機質な物体へ還元されていくことである。それは、ただ時間経過のうちに進行していく。そこに置いてあるモノも配置も、何も動かず変わらないのに、部屋が冷たくよそよそしくなっていき、しまいには干からび、荒廃し、寂寞として崩壊するのである。そして、廃墟はそれ自体で意志をもっているかのように、やがてひとりでに成長、拡大する。たとえば、ある階の三号室が廃墟化すると、必ず近いうちに両どなりの二号室と四号室が廃墟に侵されている。
 秀人、および屋敷の住人たちは、このことを経験から自然と理解している。
 このような廃墟の拡大を抑えるために、秀人は使われていない部屋を見てまわっているのである。おとずれた部屋をすみずみまで掃除、点検し、引き出しやクローゼットの中身を調べて、ノートに記録していく。ハンガーが五本、クリップが三個、聖書が一冊、ティッシュが一箱、せっけんが何個……むろん、それぞれの部屋から、さしたる新奇な発見はない。見てまわること、人の手で触れてまわる行為こそが重要なのであり、それが、そのまま廃墟化の予防となる。特に状態の良い部屋ならば、将来居住スペースとして使うことも考えられるので、念入りにチェックする。
「もうすぐブレーカー・デーね」と、皿を洗いながら仁乃は言った。
「十日後だっけ」
「ええ、今からちょうど十日後。今年もごちそうを作るわ。いつもの倉庫の材料だから、程度は知れているけどね」
「なんだか、嬉しそうだな」
「ええ、それはもう。記念日なんだもの。数少ない私たちの記念日よ。誰だって記念日くらいは、楽しむものじゃない?」
「そういうもんかね」
「そういうもんよ」
 そういうもんだろうか? と秀人は思う。
 ブレーカー・デーは、あまり全員にとって良き思い出の日というわけでもないであろうに。
 そこへ充が、空になった食器をのせたトレーを持って現れた。
「ご苦労さま。シイちゃんの様子は、どう」
「普通」
 充はトレーを仁乃に渡して、そう答えると、すぐに厨房を出て行った。
「フツー」
 秀人はボソッと、充の口まねをした。
 仁乃は吹きだした。
「もう、やめてちょうだい」
「フツー、フツー、って。あいつ、同じことばかり言ってるけど、大丈夫なのか。本当にシホのこと、ちゃんと見てくれてるんだろうな」と秀人は言った。
「普通だっていうのなら、良いことだと思うけど。あれから一ヶ月、シイちゃんは平穏を保ってる。何かおかしなことがあれば、ミツルは繊細なところがあるから、すぐに気づくと思うわ」
「まあな……」
 二人は、それで黙り込んだ。

 仁乃は洗い物を終え、鼻歌をうたいながら、食堂へ食卓を拭きに行った。秀人は、午後からの仕事のことを考えた。
 秀人は最近になって、屋敷の見回りに、しばしば小遥を伴うようになっていた。彼女に仕事のやり方を教え、一つのフロアを二人で手分けしてまわるのである。それは、彼女に仕事を与え、徐々に屋敷の住人の一人としての責任を担わせよう、という秀人の考えなのだが、それだけではない他の狙いもあった。
 秀人は“かの日”のことを考えていた。もう、ずっと昔から、強迫観念のように。いや、より正確には、二年前の、あの日。屋敷のブレーカーが落ちた、あの時からだ。
(あの時から、俺は“かの日”という観念にとりつかれている。ちょうど同じ頃、志穂子が『外界』と『他者』への、よくわからない恐怖にとりつかれて、自分の部屋から抜け出せなくなったのと同じように)
 “かの日”とは何だろうか。それは、七人にとって、おしまいの時であり、またはじまりの時でもある。そして、それはおそらく、そう遠くない未来にやってくる。
 もちろん、“かの日”などというものは、根拠に乏しい、ぼんやりとした想念でしかない。“かの日”なんて、永遠にやってくることのない、単なる思い込みにすぎないかもしれない。しかし、もし――もし本当に、その時がやってきたら、自分はここを出て行かねばならないだろう、と秀人は考えていた。“駅”の地下トンネルを潜って。
 どのような状況で“かの日”が訪れるか、わからない。しかし、状況にもよるが、たぶんその時、全員一緒に出て行くわけにはいくまい。小さい子らが、自分と同行して、『外』の世界へついてくるのはまず無理である。だが、秀人とても、一人きりで出て行くわけにはいかず、同行するパートナーが必要なのだ。
 さて、そのパートナーを誰にするべきか。
 仁乃――仁乃が、もっとも秀人と年齢も近いが……。彼女は、小さい子らにとって、常に母親的な存在であり、後に残ってその子らの面倒を見てもらう必要があると、秀人は考えている。
 充――充は手先が器用で、いざという時にけっこう肝がすわっていて、頼りになる男である。しかし、彼は、自分が出て行った後、屋敷に残るべき貴重な男手であり、一緒に連れて行くわけにいかない。出て行った後、グループは分離したまま、再会できないかもしれない。最終的に、それぞれのグループで、子孫を増やす必要に迫られることは十分考えられる。男女はバラけていた方が良いのである。
 下の小さい子ら、睦夫と奈々子は、もちろんまだ体力的に同行は難しい。となると、パートナーは志穂子か小遥のどちらか、あるいは両方、ということになる。
 志穂子は、やっぱり無理であろう。もともと体の丈夫な方ではなかったが、基礎的な体力をつけるべき時期に、部屋にこもりきりで、ほとんど運動をしていない。彼女の体力では、過酷な世界についていくのは厳しい。おそらく長期的なリハビリのトレーニングが必要なのである。その前に、まず部屋から出てきてもらわないといけないのだが。
 そうなると、小遥しかいないのである。その結論を、実のところ、秀人はかなり以前から考えていた。“前庭”で行っている日課の運動に、彼女はほとんど欠かさず参加しており、健康面にも不安がない。もし、“かの日”がやってくるならば、自分のパートナーは彼女こそがふさわしいだろう。つまり秀人は、くるかもしれない時にそなえて、なるべく意志の疎通を図っておこうと、彼女と一緒に作業する時間を増やしているのである。
 秀人は、小遥と一緒に作業をするようになって、あらためて彼女のもつ多くの美点に気づいた。明るく、聡明で、よく気がつく。なにより素直である。また、秀人は、言葉を交わす際のちょっとした彼女の仕草にぎくりとして、凝然と目をみはることがしばしばあった。彼女は、ほころびかけた蕾のように、輝かしい美しさを放ちつつある。
(この子は将来、すごい美人になるな)
 秀人は、いつしか小遥との作業の時間を楽しみしている自分に気づいていた。しかし、そういった愉悦にはそれ自体の快い一面もあるが、同時に不安も感じさせた。自分一個の楽しみに耽りすぎることは危険に思われた。俺たちは七人でひとつだろうか。そう自問することが、彼にとって行動の是非を考えるということに他ならなかったのだ。
 しかし、大枠の方針において、根本的な問題はないように思えた。つまり、自分が小遥を指導し、充が志穂子を指導するということだ。全面的に、充に志穂子を押しつける形になるので、多少心苦しいが、これが七人にとってベストになるはずだ、と秀人は思っていた。充ならやれるだろう、という目算もあった。しかし、もうひとつ充は志穂子に踏み込もうとしない。その点、しっかりしてくれよ、といつも思っていた。
 それはそうと、三日前に現れた『幽霊列車』は、これまでの思惑を全て根底から覆してしまうものだった。よもや、『外』の世界の方から変化がやってこようとは。考えられうる事態だったにもかかわらず、秀人はその可能性を全然考慮してこなかった。“かの日”がやってきて、自分から外へ「出ていく」ということしか考えてなかったのである。この世界は予測不能な、分からないことばかりだ。いろいろなことに考え直しを迫られていて、内心泡を食っていたといってよい。
 分からないといえば、ひとつ分からないまま放っておいたことがあった。一月前の夜のこと。志穂子が自ら手首を切って倒れ伏したあの夜のことだ。バラの……
「バラの花びら」
 秀人はつぶやいた。
 仁乃は布巾を持って厨房へちょうど戻ってきたところで、秀人のつぶやきを耳にして、
「え? 何?」
 と、聞きかえした。
「あの床に落ちていたバラの花が何だったのか、シホに聞いたかい」
「いえ、まだ。まだ聞けてないの」
「そうか。なんとなく今まで放っておいたが、ちょっと気になった」
「まだ聞けないでいるわ。いえ、私は聞くのを怖がっているのね。どこかであの子のこと怖れている。怖がるのはいけないことだと思うわ。けど、ダメだな私」
 仁乃はキッチンのシンクを布巾でなんとなく拭いていたが、その手を止めてふと考えこんだ。
「外は嵐でも、家の中には嵐を持ち込まないこと、か」と、秀人は仁乃の口ぐせをいった。
「俺たちは七人でひとつ、ね」
 仁乃は秀人の口ぐせで応対した。二人は互いの口ぐせを交換しあって、小さく笑いを交わしたが、その笑いはどこか淋しげなものだった。
 それから、秀人はカゴから新たな皿を取り、ちょっとずつ回しながら布でぬぐっていった。


散文(批評随筆小説等) 七人の話 その3 Copyright hon 2007-12-05 23:35:03
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