「 コワレ。 」
PULL.







 あぶない!そう思ったときにはもう突き飛ばされていて、コワレていた、かしゃん。音がして、包み中のわたしが、コワレ、ていた。コワレたのでみるみる中からわたしが漏れ出し、包みに、染みをつくる。染みは、わきゃわきゃと喋りながら満ちしたたり、わきゃっ。と地面に落ちる、落ちた、とどうじにまたわたしはわきゃわきゃと、喋り、満ちて、まわりをぐるぐるとまわりながら踊り出す、踊りは随分と騒がしく、わきゃわきゃとしていて、これはまた随分とコワレたな、と少し遠くのことのように思った。そう思っていると、声がした。突き飛ばした男が、こちらを見ていた。男は、大丈夫ですか、随分とひどくコワレてしまいましたが…とか細い声で言った。これが大丈夫に見えますか、ひどいですよ、コワレてますよ、どうしてくれるんですか、ときつい調子で返すと、男はしみじみ、地面のわきゃわきゃを見て、申し訳ない、ほんとうに申し訳ない、とくり返し、ほとほと困り果てたように溜息をひとつ、ついた。わたしはわきゃわきゃとおとこのまわりにも満ち満ち、ぐるぐると、踊る。踊る。そうしていると通行人のひとりがのぞき込み、ああ…これはひどい、ひどいコワレようだ、あんたこれ弁償してもらいなよ、と言った。すると別の通行人が、こないだ見たコワレじゃあ丸ごとぜんぶ弁償してもらったらしいよ、と言い。また別の通行人が、泣き寝入りは駄目よ、出合い頭のコワレだからってあきらめちゃ駄目、コワレた分はきっちりもらいなさい、ぶんどりなさい、やっつけてやりなさい、と言った。そうよ!、とどこかの通行人が相槌を打ち、そうだ!、とさらにどこかの通行人が相の手を入れた。相の手と打ちはまたたく間に広がり、すぐに人だまりができた。人だまりの口は、口々に、コワレたコワレた、と言い、その隣の口がまた、コワレた、と言うのだった。

 男は、小さく、なっていた。
 男は、コワレた、と言われるごとに溜息をひとつ、つく。なので、ひとつつくごとに男は、小さくなり、溜息ごとに、一まわり、萎んでゆくのだった。やがて男は手に乗るほどの大きさになり、わきゃわきゃと踊るわたしの中で、しくしくと泣き出した。泣くほどに男の涙は大きくなり、わんわんと大粒の涙と鼻水をたらし、泣きじゃくった。泣きじゃくるもので涙はかわくこともなく流れ落ち、水たまりになった。水たまりではぱしゃぱしゃと、音を立て、またさらにわたしがコワレ、激しく、踊りまわり。男はそれを見るのでなおのこと涙を流し、またコワレれてしまったまたごめんなさいまたごめんなさいと、か細く、謝るのだった。
 何だか、かわいそうな気分に、なりはじめていた、あの…とりあえず、納めるものがあれば、それで、ひとまずのあいだはしのげますので、と言うと、男が、こちらを振り返った。ほんとうですか、とか細く聞くので、ほんとうです、と答えると、ほんとうですね、とまたか細く聞かれ、ほんとうにほんとうです、とまた答えた。ほんとうなんだ、ほんとうなんです、ありがとうございます、いえどういたしまして、と会話は続き、気がつけば人だまりもまばらになり、皆口々に、何だつまらねえけんかにもなりゃしねぇ、袖振り合うも多生の縁いやぁいい和解だった、後はお熱い若いふたりにまかせて邪魔者は帰るとしますか、それではおたっしゃで、さらば、また合う日まで、アデュー、と言い言い、通行人に戻っていった。

 急に、あたりは静かになり、わきゃわきゃというわたしの喋り声だけが、やけに大きく、聞こえた。なのに相変わらずか細い声で、男は、この近くに、ぼくの家があるので、そこに行けば何か納まるものが、あると思います…あるといいです…ごめんさいごめんなさい、と小さくなった体を、さらに小さくして、言うのだった。その小さい姿を見ていると、どうにも、こちらが悪いことをしているような気にもなり、わかりました、そこへ、連れて行ってください、とらしくもなく気を利かせ、努めて明るく言うと、男は、なぜか頬を赤らめ、さらにか細く、こ…こちらです、と歩き出した。わきゃっ。男に続き、わたしが、わきゃわきゃとついてゆく。小さく、なった男の足取りは、やはり小さくて、いつまで経っても男の家には、辿り着かなかった。途中何度か、男を手の上に乗せてゆくことも考えたが、さっきの男の赤い頬が気になり、最後まで手を出すことはなかった、ようよう辿り着いたころには、日はとっぷりと暮れて、すっかり夜になっていた。
 
 男の家には、ながく、居た。
 男の家にあったものはどれも、わたしには納まらず、また、男が外から持って帰ってくるものにも、わたしは納まりきらず、そうこうしているうちにずるずると、とどまることになり、気がつけばながく、ながいということがどれぐらいのことなのか解らぬほど、ながく、居た。男はもう小さくはなかったが、ときおりこちらを見ては、ふかく、溜息をつき、涙を流した。それは出合ったときの溜息とはどこか違い、わきゃわきゃと、涙の下でコワレ遊ぶわたしの踊りも、どこか、いつもとは違っているのだった。
 ある夜、男が入ってきた。男はぎこちない手つきでほどこし、もぐり込み、しばしの後、果てた。生ぬるい感触を残し、入ってきたときよりも小さくなって出た男は、か細い声で、あいしてる、と言った。意味が解らずにいると、男は見掛けによらぬ強いちからで抱きしめ、また、あいしてる、と言った。あいしてる、あいしてる、男は、飽きることもなく続け、息ぐるしいほどのちからで抱きしめ、また、入ってくるのだった。わきゃ、わきゃっ、まわりではわたしが踊り出し、交わりの中をぐるぐるとまわり、まわり、踊り続けた。
 踊りは、朝まで続いた。
 その夜以来、男は毎晩のように、入って、きた。ときには、こちらから導く夜もあり、そんな夜はことのほか、男は悦んだ。またしばしば男とは、事変わる夜もあったが、それでも男は嬉しいようであり、よく応え、交わりを続けた。そうしてながいときが過ぎ、さらにながいときが過ぎた。わたしは、相変わらず納まることはなかったが、とりたてて不満な様子を見せることもなく、毎晩踊り、まわり、交わり、続けた。男は、いつしか夫と呼ばれるようになり、おとうさんになり、おじいちゃんになり、ある朝、死んだ。

 葬式を、出した。
 式は盛大なもので、参列するものたちの列は向こうの端まで続き、その涙は川となり、海まで流れた。泣き虫のおとうさんらしいいいお葬式だったと、娘たちは口々に言い、泣いた。娘は三人、生まれた。生まれたときから娘たちは、男に、近かった。ときを経れば変わる、そう定められたものたちだった。おまえは変わらないねぇ、おまえはいつまで経っても変わらないねぇ、死ぬ前の晩も、男はそう言って、撫でてくれた。もう随分とながいあいだ、男とは交わしていなかったが、それでも男は毎晩のように抱きしめ、あいしてる、あいしてるよおまえ、とか細く、続けるのだった。朝になり、冷たい感触で覚めたとき、男はもう、そこにはいなかった。わきゃ…わきゃ…男の抜け殻をつつくわたしの声が、ひどく、遠くに聞こえた。涙は、出なかった。葬式のあいだも、泣くことはなかった。わたしはわきゃ…わきゃ…と、沈んだ、声を上げ、男の棺のまわりをぐるぐると、まわり、まわり、まわり、続けた。それを見て娘たちはまた泣き出し、父親そっくりの涙を、こぼした。娘たちは最後まで、男に近く、おかあさん、と呼んでくれたことはなかった、確かに産み落とし、確かに産み落とされたもので、あったはずなのに、娘たちは、遠い、相容れないものたちであった。それはコワレたわたしが、男の、どのものにも納まらなかったことと、どこか似ていた。だがそれでも、相容れないものは、相容れない、娘とは、そういうものだった。

 気がつくと随分と、居ついて、いた。近ごろは孫たちが、ひ孫を連れて遊びに来るようになった。ひ孫たちはことのほかわたしになつき、日が暮れて眠くなるまで、縦に横に、ひっぱったりのばしたりして、遊んだ。ひ孫たちは無邪気で、残酷で、まだ何も知らぬ、いたいけな存在であった。ひ孫たちは皆、大きな目を目をさらに大きくして、こちらを見る、ひいおばあちゃんどうして違うものなの、いつから違うの、コワレちゃったの、どうしてずっとコワレているの、と矢継ぎ早に言う、答えずにいると、その小さい手で、ねえどうして、どうして、と上に下にわたしをひっぱり、飽きると、つまんない、と投げ捨てる、そしてしばらくすると、また、わたしを掴み、右に左に振りまわし、ひいおばあちゃんはどうしてひいおばあちゃんなの、おばあちゃんはみんな死んじゃったのに、どうしてひいおばあちゃんなの、と言うのだった。娘たちは、皆死んで、男と、同じ墓に入った。風の心地よい朝には、男と娘たちが好きだった花を持って、参ることもある。そんな日の夜には、男の肌のぬくもりを想い出し、眠れなく、なる。あいしてる、あのか細い声が、もう一度聞きたく、なる。わきゃ…また沈んだ、声で、わたしが喋り出し、踊り出す。あいしてる、あいしてるよおまえ、男は何度もそう言ったが、あいしてくれているか、と聞いたことは、なかった。もし聞かれていたら、どう答えただろうか、あいしていたのだろうか、解らない、ながく、あまりにもながく、すべてが経ち過ぎてしまった。だが聞きたい、もう一度、あの男のか細い声で、あいしてる、その一言が、どうしても聞きたい、眠れ、ない。

 また、さらにながいときが、いくつも過ぎた。ひ孫たちはもう随分とながい前に、死んだ、その子たちや孫たちやひ孫たちも皆死んで、最後のひとりも、ふたつながいときの前に、死んで、絶えた、残ってしまった、誰も、いない、はるか向こうの果てまで見渡してみても、残っているものは、もういない。いない。皆絶えてしまった。このままずっと、すべてが果てるまで、残り、変わらずに続いてゆくのだろうか、そんなことを考え出して、もう随分とながいときが過ぎていた。ながいときは、終わることがなく、コワレることも、なかった。遠くで、大きい、音がした、音は、広がり、響き、どこまでも揺さぶった。やがて、夜がなくなり、空がなくなり、ながい、無限の朝の中、すべてが、なくなった。だがそれでも変わることなく、ときは流れ、わたしはここに、居る。今でも、わたしはわきゃわきゃと、喋り、満ちることが、ある。耳を澄まし、その意味を探ろうとするのだが、それはようとして掴むことが、できない。












           了。



自由詩 「 コワレ。 」 Copyright PULL. 2007-11-29 08:04:40
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