同病相哀れむもしくは
亜樹
手首を切るような人間の感情はわからない、と彼女は言った。
それは、彼女のまっとうさを端的に表わした発言だろう。
私が最も憧れて、同時に疎む、彼女の特性の一つである。
わからない、と言った彼女は、おそらく私がそのとき、引きつったような笑みを浮かべた理由もわかってはいまい。
彼女がわからないと言ったのは、別の人間のことだった。
そして、同時に私のことだった。
私の部屋には、二本のカッターナイフがある。
一本は文房具として使われ、もう一本は別の使い方がされていた。
まっとうで正直で強靭な彼女は、来年から教壇に立つ。
いかにも相応しい。
彼女を採用しない県があるとすれば、よっぽどの馬鹿だ、というのは友人一同の見解だった。
私は受からなかった。
それもまた、相応しいような気がする。
面接練習の際、試験官を演じた教員は言った。
それじゃあ、受からないよ、と。
近頃は、コミュニケーション力だとか、人間性だとかいうものが、何より重視されるのだから、と。
それから彼は、いかに私の受け答えがなっていなかったかということを、切々と説いた。
採用試験の、2ヶ月前だった。
薄々と、気づいてはいた。
六年と三年と三年と四年と、そんな風に区切られた学校生活の中で、私が築き上げてきた長所、『真面目でいい子』は、何の価値もないということを。
何の価値もなかった私が、どうにか見つけた特性は、特性でもなんでもなかったということを。
薄々は、気づいていたのだ。
けれど。
けれど、と思う。
これが、単なる責任転嫁であることを、承知で、思う。
ならば、なぜ、そのことを諌めてくれる大人がいなかったのか。
そんな風に生きてもたのしくないよ、と。
つまらない大人になってしまうよ、と。
私が言われたままに掃除をしているときに、私が言われたままに宿題をしているときに、私が息を潜めて本を読んでいたときに、私が自分で考えることを放棄していったときに。
誰か、一人。
止めてくれればよかったのに。
実際は、親も教師も、『真面目でいい子』な私を褒めてくれただけだった。
私は反抗期すら経験していない。姉の反抗期が派手すぎて、機会を逃してしまった。今更五十に近い両親に反抗する気力もないし、彼らの体力を思えば、どうしたって躊躇いが生じる。
小中の恩師は、学校に行けば、明るく出迎えてくれた。
高校は決まったか。大学は決まったか。お前は真面目だから、大丈夫だよな。しっかりしてるから。
彼らに怨みなどというものを感じたことはなかった。完璧な人格者じゃないのは、知っている。人間だから、仕方ないと素直に思える。過剰な要求はできようがなかった。
何に憤ったらよいのか考えて、結局は自分に還る。
そういう性分だった。そういう性分になっていた。
長袖の下、普通にしていれば見えない部分、そこに走る薄い赤い線。
これがなければ、おそらく私は生きては行けない。
狂ってしまう。
絶望してしまう。
やり場のない憤りの逃げ道は、その歪んだ赤いラインだけだった。
手首を切るような人間の感情はわからない、と彼女は言った。
私には、それこそがわからなかった。
それを、口に出してしまう彼女が。
自分が正しいと、信じて疑わない、疑問にすら思わないその傲慢さが。
友人に言った。
彼女のようになりたい、と。
友人は首を振った。
私たちには無理だ、と。
彼女の発言に、一喜一憂を繰り返す、私たちには無理だ、と。
自分が、蔑まれるべき種類の人間だと認識してしまっている、私たちには無理だ、と。
もっともだと思った。
私は彼女にはなれない。
彼女が私になれないように。
私の手元には、今一通の手紙がある。
彼女の元には、けして訪れないであろう種類の手紙。
頭がぐらぐらしそうなほどの、悲鳴とSOSに満ちた手紙。
文末に、最初会ったときからわかった、と書かれていた。
同じなんでしょう、と。
貴方も私と同じなんでしょう、と。
どういう理屈か知らないが、何故か、彼らは、私を標的とする。
彼女ではなくて。
同じ荷を負った私に、自分たちの荷物を惜しげもなく上乗せしてくる。
私が潰されるのを、心待ちにしているかのように。
来年、彼女は教壇に立つ。
私の未来は、今のところ不透明で、手紙の増える予定はなかった。
彼女もきっと、これから先、手紙を受け取ることはないだろう。
受け取り手のない手紙に向ける感情は、哀れみに似ていて。
もしくは。