冬のはじまり
プル式

・僕は電車で真ん中に座る

少し語ろうと、思う。今しか語れない事や、それから少し前の事を。先の事を。
もうじき30歳になるある日、僕は友人と酒を飲み、そうして勢いで、次の日の仕事を休む電話を会社にかけた。僕らの働いていた会社は、そういう事に割と寛容で、時々、酒にまかせてそんな電話をかける僕を、笑ってやり過ごしてくれる。そこまで仕事に期待されていない分、僕としてもゆるい仕事場に甘えていた。
少し前なら、僕にも彼女が居て、そういう日や、休日なんかは一緒に出かけたり、バイクや車でドライブをしていたのだけれど、残念ながら、今の僕には彼女どころか、そうなる様な女性さえ居ない。それはそれとして、仕方の無い事なのだけれど。それ、というのは、僕は夜に仕事をしているからだ。といっても別にお水系の仕事ではなく、デスクワークで、一日の仕事が終わると朝になっているから、必然的に普通の時間に人と出会う事がまず無いのだ。満員電車でサラリーマンが揺られる頃、僕は向かい側のホームで、少しのんびりとしながら、眠い目で通勤の行列を眺める。電車の中は空いていて、大概の場合好きな場所に座る事ができる。僕は電車の角の席に腰を下ろし、ぽかぽかと暖かな日差しの中で、ひなたぼっこをしながら、僕のおりる駅までの間、しばらく微睡んでは、時々おりる駅じゃないかと外を見る事が好きだった。少し前までの話。

・当たり前と言う幸せ

絵描きをしながら、夜仕事をしていると、必然的に、というか完全に夜型になる。夜の方が、メンタル的な意味でロマンチストになるし、静かだからだ。ほぼ無音に近い静寂のなかで絵を描くと、自分のイメージだけが世界を作り上げ、そこに混ざり物が少なくなる気がする。できるだけ透明な意識の中で、自分の感情を見つめながら小さなおとぎ話を絵にしていくのが、僕には合っている気がする。しかし、そういう生活をしていると、どうにも人との接点が少なくなって、僕は時々、周りから置いて行かれたような気持ちになる。仕事で外に出る時間は夜だし、帰りは朝だから、季節の感じも何となくずれていて、僕の好きな、花見の時期や、赤く染まる木々をのんびり楽しむ事もできない。
ある日の夜、休日と言う事もあって、僕は友人とラーメン屋に行った。食べ終わって外に出ると、会社帰りの人、バスを待つ人、これからどこかに遊びに行こうという人たちが溢れ返り、とても賑やかな空気だった。普通の時間で生活している人たちの空気。それはとても和やかに僕を包み込み、一つの違和感もなく、あるがままで受け入れてくれる感じがした。そうして僕は思う。当たり前のすばらしさを。そんな事を思いながら、僕は電車に乗って家路についた。

・イルミネーション

大阪に長居公園という場所がある。割と大きな公園で、陸上の大会や、サッカー場などが在ったりする。去年、そこにふらっと、友人と散歩に行った時、見知らぬおばさんから声を掛けられた。ルミナリエという、神戸のクリスマスイルミネーションの事と、行き方、そのご近所のお勧めスポットなどを延々と説明された後、誇らしげに胸を張るおばさんは、僕と友人を見て「彼女?やるなぁ、ひゅぅ、ひゅぅ」といいながら、鹿のイルミネーションの中に消えて行った。もちろん、僕と友人はあっけに取られながら、それでも何となく和み、そのおばさんを見送ったのだ。きっとあの頃も、僕は寂しがりで、人に甘えてばかり居たから、本当にそう見えたのかも知れない。そうして多分、おばさんも寂しかったのだろう。冬の夜に一人で公園に居るおばさん。イルミネーションを眺めながらため息をつくおばさん。ぼくらが公園を一周りして、帰ろうとした時、振り返るとおばさんが、一生懸命に手を振っていた。僕らは小さく手を振り返して会釈をすると、そのまま居酒屋で酒を飲んだ。もちろん、そのおばさんの話を肴に。

・冬の夜の始まり

なんだか寒いな、と思っていたら、外に出ると吐く息が白くなっていた。そんな話では無いのだけれど。
冬の夜には不思議な力がある。思いで話をしたくなるのも、もしかしたらそうなのかも知れない。少しオセンチな気持ちで、肌に痛い様な風を受けて自転車で走ってみたり、マフラーで顔を埋める様にしてみたり。
子供の頃、僕の家は本当に貧乏で、誕生日に缶ジュースを1本、兄弟3人で分けるというのがケーキの代わりだったりした。貧乏な家にありがちな、父は暴力癖の無職、母がパートで働く、という典型だったので、子供の頃の冬には、いい思い出が
無い。家に帰れば恐怖が待っているし、外は寒い。母の帰る時間は遅く、そんな時間まで外に居る事は出来ないし、何より、ご飯を僕ら兄弟が作らなければ、また殴られるから、どうにも帰らなければならなかった。そうして、ぎりぎり許される時間まで外に居ると、大抵の家は夕飯時になって、ちゃんとした暖かい匂いがしてくる。僕ら兄弟はそんな窓を眺めまいと、近くの空き地で時間をつぶしていた。だからと言う訳では無いのだけれど、冬の夜に明るい窓を見ると、無性に涙が止まらなくなる。そんな訳で、僕の密かなあこがれは、冬の夜、家族でクリームシチューを食べる事であったりもする。

・そこにある世界

僕が絵描きになる事を諦めようと思ったのは、なんて事のない、小さな事だった。僕は今までいろいろな事をして来たし、多分、それが身になり、随分助けられてきている。僕の兄弟たちは同じ様な中で、いろいろな路に出会い、一つの路に進んだ。兄は映画を撮りながら起業し、弟は結婚して音楽で食べている、僕は絵を描きながら働いている。三人三様なことをしている。比べてしまったのだ。そうして、年齢を感じてしまったのだ。僕は元々追いつめられる事が嫌いだし、能天気な性格だと思う。それでも、一般社会で暮らして行く分には問題無い程度だと思うし、実際、今のところ問題は無い。正確に言うと、僕が絵描きになるのを止めようと思ったのは、その年齢に、生活に追われる事を止めようと思ったからなのだ。だから、ちゃんと、普通の時間、普通の会社に就職をして、趣味として描き続けよう、と言う事なのだ。スタンスの違い。だから多分、無理してコンクールに出す事も無くなるだろうし、訳の分からない絵や、風景なんかをのんびり描いて行くのだろうと思う。兄のスタンスに近いのかも知れない。僕ら兄弟には多分、兄弟にしか分からない事が有ると思う。でも、僕ら兄弟には、お互い分かり合えない世界が有るのだとも思う。それぞれが何かを求める時、その目の前にはどんな景色が見えているのだろう。

・僕という記憶

新宿の駅前の喫煙スペースでタバコを吸っている時に、立ち昇る煙を見て思ったのだけれど、例えばこの煙の中にそれぞれの記憶が混ざっていて、それが誰かの夢になったりしたら面白い。それが自分であっても。タバコ嫌いな人もいるから、そういう人は冬に飲む紅茶や、コーヒーの湯気でもいい。何処へとなく消えてしまう煙や湯気が記憶を運んでいく。
もう一つ思ったのが、感情を記憶できるものがないって事。季節の切なさや心地よさ、そういった、今、この瞬間の記憶をとりたい。だけどきっと、今しかないから大切に思う感情もあるし、それが人を動かしていたりもする。だから、無い方が本当はいいのかも知れない。だけど、今、もし初めて空を見たときの気持ちが僕に有ったら、世界はどう見えているのだろう。唯一、僕の感情を記憶する「僕」というものはどうやら不完全らしく、あまり昔の感情を伝えてはくれ無いようである。

・コンドルは飛んでいく

僕らが仕事を休んで、のんびりと一日を過ごしたその日の帰り、彼は最寄りの駅に着くと、それじゃ、と言って電車をおりた。おりて空いた隅っこの席に、僕はなんとなく、つめて座り直した。それは何となく、居心地が悪く寂しい気がした。
それからと言う訳じゃないけれど、僕は真ん中に座る様になった。長い電車の座席の真ん中に、ぽつんと座って、外を眺める。流れて行く景色、小さな屋根や電線、街路樹、そういったものをぼんやり眺めながら、一人を楽しむようになっていた。
新宿駅について乗り換えの為に歩いていると、駅前で民俗楽をやっていた。アンデスの曲がなんだか冬の夜の始まりにマッチしていて、心密かに、荒野を行くさすらい人気分を味わっていたら、目の前に浮浪者の人が立っていた。適わないなぁと思いながら、階段をおり、ホームに入ると、コートやマフラーがちらちらと目立って来ていた。途中の駅ではクリスマスイルミネーションが飾り付けられ、帰宅ラッシュの窓から見えるそれは、なんだか少し幻想的に銀河鉄道の夜な気分になった。僕はそのうち忘れて行く記憶をたよりに、きっとまた、そこにある、当たり前の幸せという、暖かな世界を目指して行くのだろうと思う。コンドルは飛んで行く。紫の山並みにいつまでも、当たり前の様に。


散文(批評随筆小説等) 冬のはじまり Copyright プル式 2007-11-17 04:32:51
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