それで手に取ったミルクはどんなふうに始末をつける?
ホロウ・シカエルボク
その夜に刻印は無い、とくにこれといって
しんとした冷たい、しんとした冷たい―隙間風が入り込むだけ
綿毛のように逃げていった古い名前と
綿ぼこりのように積みあがるいらぬ記憶
街路を通り過ぎる誰かの靴音にまぎれて、核だったものが行方不明
電灯におやすみを言うと月明かり
蛍光レモンイエローの感触を
受け止める暗色のカーテン
混ざりすぎて混乱したようないろどりの床に
ミルクをぶちまけたくなる衝動をどんなふうに美化しようか
その夜に刻印は無い、なにをしたところで
それがなにかになるようなものではないことは判りきっているから
無駄だと完璧に理解していることがらは
あらがうことで壊したくなるものだろう、だけど
それが感情だの衝動だのといった定型的な罠だった場合
タオルを乳臭くしながらうんざりするような結末しか残されてはいないのだ
―そしてそれは幾日も記憶の範疇にとどまっているようなものではない
葛藤なんて時代遅れだよ、ねえ君
いまはコンピューターソフトウェアがうたを歌い始める時代だぜ
ベートーベンの執念は水の泡になっちまった
血を吐くような思いなんてもういらない
観念的な完成のために机を殴りつける時代は終わった
廃れてゆくものに特有の妙な涼しさだけが
あらゆる手段で世界に垂れ流されているんだ、俺はそれを絶望だなんて言わない
それとこれとはたぶん関係が無い―少なくとも俺には見つけられない
黄泉の廊下に順番に並べられたしゃれこうべ
ルネッサンスの辺りで歯軋りが聞こえる、でもあれはただの癖かもしれない
明方にくっきりとした夢ばかり見る、疲れているんだ
コントラストを強くしたテレビをブラウン管に鼻をくっつけて眺めているような感じ
見落としてしまうものが幾つもあるみたいなんだ―だからそいつは明方の夢なのさ
一週間分の番組表を詰め込まれたみたいな目覚め、どういう気分かわかるかい
この中に自分が必要としているプログラムがいったい幾つあるんだろう、とでもいうような
見も知らぬ気味の悪いドアをしぶしぶ開けるみたいな、何の為なのかさえ満足に知らされて無い目的のような
まず直感的にウンザリを感じてしまうような気分さ
カーテンの前にはパソコンデスク、そこしか置き場所がなかった
その窓のカーテンは開かれる事が無い―だから俺は月を見ることが出来ない
月の秘めたる狂気はなぜか少し官能的な感じがするね、だけどそんなイメージもやっぱり俺には不要のもので―ルナティックどうのなんて
恥ずかしくてとてもこだわれるようなイメージじゃないんだ、横道にそれることで
列から少し離れることで―これといって何も無いやつがちょっと目だって見えるようなさ
そんな効果をどこかで狙っているのかもしれないけれども
だけどそれって思春期によく使われるようなテだよな
テレビドラマじゃいまだにメジャーな手法だけど
完璧な嘘をつきたいやつがたくさん居るんだ、俺はそうじゃない
完璧な形式を継承したがってるやつがたくさん居るんだ、俺はそうじゃない
豚肉の部位別名称一覧表みたいなものを
みんながみんな作らなくてもいいんじゃないのって思うだけさ
たまたま列から離れてるって―そう解釈してくれると一番ありがたいね
教えてもらうの得意じゃないんだ、歳をとったら上手く出来るかと思ってたけどそうじゃなかった
自分で羽ばたいてみなけりゃ羽根の使い方なんておいそれと判らないだろ、俺がやりたいのはそういうたぐいのことなんだ
そしてその夜に刻印は無い、とくにこれといって
今日の翼は上手く風を捉えられなかった
そして落ちていく緩慢な時間
綿毛のように逃げていった古い名前と
綿ぼこりのように積みあがるいらぬ記憶
街路を通り過ぎる誰かの靴音にまぎれて
核だったものが