アデン 二
soft_machine
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僕は床におかれたビンに近寄った。
男はまだごしごしやっている。僕はビンにひだり手でふれた。
液体はとても澄んでいて気にいったから、しずかにビンを揺らした。空にぶつかったひかりが北むきの窓からやってきて、液体の中でチリチリと反射した。
こんどはりょう手で揺らした。ガタン。ビンが倒れて開いたくちからこぼれる液体がすばらしい速度で床をはっていく、においがまぶしく拡がった。間のぬけた声を上げて男がビンを慌てて立てる横を、僕は柱のむこうにはしってカーと騒いだ。ざまあみろ、だ。
男は やれやれと言いながら床をふいたあと、ギラギラだった板もぴかぴかにして部屋を出ていった。どうやらケンカする気はなさそうなので僕は柱からはなれて、男が座っていたいすにのぼってじっくり四角をながめることにした。
変わったとくぎだなぁ、ただの四角のなかにこんなおおきな景色がつくれるなんて。それも雨を降らしたりビルを燃やしたり、リンゴがあって僕や鳥やブタもいる。一体なんでこんなことするんだろう?
じっと見てるとまたしてもあたまがクラクラするのは、ほんとのようで、綺麗だけれど嘘っぱちなこの景色が実はいろんなところでヘンに歪んでいて、青い手の男も笑っているけれど人間にしてははだかで、はだしで、よく見ると立派なからだのあちこちからまっ赤な血をながして歩いているからだ。おかしな渦まきみたいな景色の中でたったひとりの、この男のお父さんとお母さんはどこにいるんだろう。そっちはもう四角のいき止まりで、なのにはだしで泣いたふりして笑っていられるなんて。この男はほんとは笑ってもなくて泣いてもなくて、じゃあ怒ってるのか喜んでるのかもわからない、僕はだんだんヘンな気持ちになった。それからすこしかなしくなった。ニャーと声にだしてふり返ると、いつの間にか白い半袖のシャツにまっ赤なネクタイをしめた棒の男が笑いながら僕を見ていた。その笑顔で僕とたいして変わらないくらいの歳だってことがわかって安心すると、ちょっと嬉しくなった。
出かけてくるよ。そう言って棒男はぼくがここにきた時とおなじくらい、ドアをすこし開けたまま家を出た。
棒男がでていったあと、台所にはパンとミルクが置いてあった。そのとなりにはタオルがたたんで敷いてあった。ちょっと押してみたらだいっきらいな洗剤のにおいがしたから、はじっこをくわえて玄関にもっていって、パンをかじってミルクを飲んだ。まんなかの部屋のベッドはいろんな人間のにおいがしたけれど、もうここでいいやと思って眠った。
ドアの前に立つけはいで目がさめた。
明かりがついてくつを脱いで男が帰ってきた。
ベッドの上からお腹がすいたと講議しようとしたら、男は紙ぶくろをがさがさいわせてカン詰めをとり出した。ふたを開けたにおいは、まぐろの油づけだ!僕は床に置かれたまぐろにかけよってむしゃむしゃ食べた。男はせっかくぼくが玄関にもっていったタオルをたたみながらお前のベッドはこれだよ、なんて冗談じゃないことをいって食事の邪魔をする。しらんふりしてむしゃむしゃやっていたら、こんどはアデン牛乳のむか?といってミルクを置いた。
「アデン、お前はアデンだよ」
僕はアデンをなにかおいしいものかと思ったけれど、どうやら男が決めた僕のなまえらしい。とんだ期待はずれ。
男は俺はツガワだよと言ってぶ厚いコップに氷とお酒をいれると、四角のある部屋にいって飲みだしたから、僕はやっぱり開いたままのドアから夜の散歩にでかけた。なまえなんてどうだってよかったけれど同居人がそういいたいのなら別にかまいやしない。どうだっていいのに、なまえなんかにこだわるツガワはさびしがり屋で、人間がさびしがり屋なんだろうな。
月はかくれていたけれど、雲がとても明るかった。ぶらぶらしてるうちにちいさな池をみつけたから、しばらくその回りをかけて虫をおいかけたりして遊んだ。ゆうべはずっと歩いていたから、まだちょっと疲れているみたいだ。またゆっくり探検しよう。
帰ったらツガワはもう眠っていたし僕もねることにした。けれど、ただでさえおおきなからだのツガワが上をむいて眠ったりするから、ベッドに残された僕のねるぶんはツガワのあたまの両となりだけだった。にんげんはまるくならないで眠るらしい。ツガワのかおをひだり手で押してみたけれど気づかない。しかたないのでツガワの胸にのぼってふとんをととのえた。これならなんとかねれそうだ。まるくなったらベッドはお酒で甘くなった汗とまっ黒な髪のにおいがした。それからたばこと洗剤と、つんとしたあのにおい。
ツガワはちいさい息で眠っていたけど、人間のしんぞうの音がこんなにおおきくてゆっくりだって知らなかった。ツガワのしんぞうの音のほかには誰のあし音もきこえない。こんなに静かな夜ははじめてだった。