かえらぬこへ
汀
もういいかい もういいかい
暗闇に響く声
夜はだんだんと日を食んで ほおら 冬がくるよ
寒い寒い冬だよ 秋ですら変わらずにはいられないのだよ
子供が一人 そう口ずさんで
杜若が咲いていたことも知らぬ庭を歩いてゆく
その足取りは軽く
花の残像はかき消され もみ消され 空に消えて
:
まあだだよ まあだだよ
夕闇は紅く
黒と海の青との間が赤だなんて 誰が思いついた
綺麗だから怖いと 黄昏は思考を夢ごと奪っていくからと
大人は一人 喉で言葉を飲み殺し
杜若が咲いていたことを知る庭を走ってゆく
その足取りは 勿論 重く
花の残像は裏切られ 美しさすら 忘れられて
:
いつか もういいかい の 問いかけに
もういいよ と 答える人はいるのだろうか
それは子供の母で 大人の妻であったかもしれない
でもそれは 例えばの話
子供がみなしご 大人が独りならば
ならば それならば
もういいよ と 答える人はいるのだろうか
:
声は返らず
子は還らず
大人は一人 孤独を抱えた明日を 重ねていった未来の日
そう 日が夜を照らしだすころ 春が来る頃
杜若とともに そっとその足を踏み出すかもしれない
でもそれも
例えばの話 で