詩とは何か——ソネットについて
木棚環樹

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不定期刊行物【賞なしコネなしやる気なしで作家を気取る100の実験】
第85号 2003/3/10発行
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1ごあいさつ
「詩とは何か」と言った時に、「自由な物だ」とか
「思ったことを口に出して言えば良い」という言い方を
オープンマイクの場ではよく言われる。
これはオープンマイクに初めて接する初心者に、
怖がらなくて良いからやってご覧という意味だ。

私は一応、オープンマイクの場所で人前に立つことを一年ほどやって
いまではそれほど怖がってない。
その私が「詩とは何か」と言ったときに「詩に独自の技法とは何か」
という意味になる。
POECAの掲示板
http://www.poeca.net/cgi/db.cgi?action=clist
をみていると、詩人対ラッパーとか詩人対芸人
といった企画がたてられ、隣接するラップや芸人の
技法をオープンマイク詩に取り入れようとする企画がある。
この掲示板中

AGEHAさんの鉄腕ポエム4
投稿日:2004年02月17日(火)12時07分
の投稿で、個人的に以前から私が思っていたことを
他の方も感じておられるんだなという確信を持ちました。

詩(オープンマイクで朗読されるような朗読詩に限定)が
雑談や一人ごとと違うとすれば、
どのような技術がそこにあるのか。
初心者にも参加出来る敷居の低さ。それはそれでいい。
それとは別に、上達しよう、上手くなろうといったときに、
どういう訓練をして、どのようなものを目指せば良いのか?

ラップのように韻を踏みリズムを作るのはラップの真似事だと。
笑いを取るのは芸人の真似事だと。
だったら、詩に独自の技術とはどのようなものなのか?

オープンマイクによく来ている人達としゃべっているときに
「活字詩の人達はネット詩を評価しない」
というネット詩サイドからの活字詩批判がある。
具体例はポエニクルのR4「現代詩手帖 2003年8月号」
らを参項。
http://poenique.jp/cgi-bin/r4/cbbs.cgi?mode=one&namber=15&type=4&space=30&no=0
現代詩手帖側のネット詩批判は、
(ネット詩は)多くのアマチュアと少数のセミプロばかりで
玉石混合だというものらしい。
現代詩手帖のやっているビジネスが、詩集の同人出版であり、
お金を出して詩集を自費出版してくれる著者がお客さんであり、
自費出版しないネット詩やオープンマイク詩が増えれば金が動かなくなるので
ビジネス的にマズイというその程度のものだと思うのだが、
じゃあ、活字詩もネット詩もオープンマイク詩も、
詩独自の立派な形式や技法や内容を備えているのかと。
備えてないんじゃ、ネット詩と活字詩がケンカしたところで
非常に無益だよねと。

死紺亭さん主催の過渡期ナイトが、ボストン高田馬場店閉店後、
早稲田大学のラウンジに会場を移し、
内容も交流会からワークショップに変化したのですが、
その新生過渡期の第一回いってきました。
死紺亭さん・温子ボンさん、私含め4人。
死紺亭さんが言うには、スポーツというのは
素人層・上手い層・観客層の三つがないと成熟しない。
サッカーでも、子供が路上でサッカーをする。これが素人層。
プロのサッカーチームがあって、素人がみても上手いなと思える。
少年サッカーチームに元プロサッカー選手が
サッカーの技術を教えに来てくれたりもする。
これが上手い層。
サッカーの試合があったら、
お金を払って観に行く観客がいるこれが観客層。
さて、いまのオープンマイクが素人層だとしたとき、
他の二つをどうやって育てるのか?
これが死紺亭さんの話。

俺が言ったのは、
文学雑誌には純文学雑誌と大衆文学雑誌があって、
純文学は外国文学研究者が書く学術論文で
大衆文学は、学園ラブコメのコバルトならコバルト
ポルノのフランス書院ならフランス書院、
ラブロマンスのハーレクインならハーレクイン、
推理小説の創元推理文庫なら創元推理文庫、
同じジャンルの小説を複数の作者が、
月一冊ペースなら月一冊ペースで書き続ける。
損益分岐点が三千部なら三千部(同人出版の損益分岐点)、
五万部なら五万部(文庫本の損益分岐点)とにかく売る。
これが大衆文学。
学術論文とペーパーバックの間に中間点はいっぱいあるけど
典型を二個決めるならその二つ。
さて現代詩のジャンルで、エンターテーメントとして
コンスタントに三千部以上売ってるのがどれだけあって
外国文学研究の研究書として成果が上がってるのが
どれだけあるのかと。
観客層と上手い層を作ろうとしたら、
売れるエンターテイメントも必要だし、
どれがどう上手いのかを理解出来る批評眼を持った観客も必要だと。
批評眼を持った観客を育てるには学術書みたいなのも必要だ。

2音楽と文学の接地点
で、詩の技法について俺も考えようとしたのだけれど
基本的に俺頭悪いし物を知らない。
だからまあ、不備はあるし、指摘していただけるとありがたいと。

西洋の詩というと、代表的なのがソネット(sonnet)。
iambic(イアンブリック・弱強格)
pentameter(ペンタメーター・五歩格)
の詩だとされてます。
弱音と強音が交互に五セット、計十音で、一行の14行詩。
元々、イタリア発祥でイタリア語ではsonetto、
その後、フランスヘ行って、イギリスでシェークスピアに出会ったと。

まずね、ソネットに関して知らなかってんけど、
これ、歌や演劇と結びついてて、
ヴィバルディーの春で有名な四季って、
ソネットやってんな。
ヴィバルディーってイタリア人で、
自らの曲にソネットの詩を付けたらしい。
他にはリストという作曲家の作った「ペトラルカのソネット」。
作詩はペトラルカ。
クラッシックとソネットの結びつきは一般的なようです。
以前、takaさんに
「ソネット教えてくれ」と言ったら、
「曲は聴いたことあるの?」と言われて、
「ソネットって音楽のジャンルなん?」と?マークいっぱいで
「いいえ?」と答えたら。
「まず、音を聴け」と言われました。
シェークスピアのソネットの朗読CDだと文字通り
ソネットというタイトルで以下のようなCDがあります。
http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/B00004HYEP/qid%3D1013440326/sr%3D1-3/ref%3Dsr%5F1%5F3/103-6746190-2419055
英語のHPですが、音を試聴できるので聴いてみてください。
朗読は、ロイヤル・シェークスピア劇団と
グローブ座にいた四人の俳優によるそうです。

シェークスピアという地点でソネットが演劇と結びついていたのは
丸分かりなのですが、詩というのは元々舞台芸術で
紙に書いた物ではなかったという部分を大事にしたいです。
面白いのは「赤い鳥」
http://www.d-score.com/pg/A02011601-1.html
といわれる文学雑誌が昔あって、
北原白秋などが参加し、それは当時文学雑誌とされていたのですが
その文学雑誌に載っていた童謡がいまでは音楽の教科書に載っているという。
詩というのは、劇として上演されるにしろ、歌として歌われるにしろ、
舞台芸術だという部分が大前提なんですね。

ソネットがらみで、sonneteerという単語があって
ソネット詩人・へぼ詩人を意味する語だそうです。
つまり英語圏では、ソネットというのはもうダサくて
古臭い詩の形式であるようです。
ソネットでも短歌でも俳句でもそうですが、
定型詩の一形式が、ある特定言語内で流行るのが
約百年から二百年。これが定型詩の寿命で
二百年もやるとその形式の可能性は、やり尽されるようです。
だいたい、芭蕉なりシェークスピアなりの天才が出て来て、
一生掛かってその形式の可能性を引き出し尽くし
その人が死んだら徐々に廃れていくという流れのようです。
その定型詩が本当に流行っているのは
その天才が生きている100年ほどですね。

ソネットという外国の詩の形式を
日本語に取り入れようとした時、
ソネットのどこに重点を置くかですね。
日本の現代詩で一番多いのは、
詩の意味を意訳するパターンで
音のリズムや韻を整えるために入れた無意味な語や
文法的に不自然な配置等を、
そのまま意訳して、意味不明な日本語になっているのをみて、
これが現代詩かと。これなら俺でも書けるっつって
意味不明な言葉の羅列を作って、現代詩ですとか言い出す。
これが現代詩の最悪のパターンで、
最初に外国語の詩にあたって、上手く日本語にならずに
変な言葉の羅列に訳してしまうのはまだ良いとしても、
その訳文の真似のとかしてるやつらは最悪だなと思う。

次に、詩というのは意味よりも形式が大事なんだと、
少しは気付いて、ソネット=14行詩だから
14行で書けば良いんだという人達がいる。
14行で書こうが何しようが散文は散文じゃんと
思えなくもないけど、
その14行が四つの連からで来ていて、
四行の連が三つの後に、二行の連が一つついて、
起承転結の四つの連から構成されていたりすると、
解釈としては正しいような気もする。
例えば、ソネットでも始めの八行二連はオクターブ(octave)
と呼ばれ、三連目の一行目はpivot(ピボット/旋回点)
と呼ばれ、それまでの流れとは違う何かが起きる行だとされている。
そして、うしろの六行二連はセステット(sestet)
と呼ばれる。
オクターブでは、出来事の始まりや問いなどによって構成され
セステットで、出来事の結末や問いに対する答えが示される。
そういう意味による構成を意識した上で14行にすれば
韻文としての制約が多少は発生する。

ソネットの持つ韻の部分に注目したのが
中村真一郎や加藤周一らのマチネポエティックだとされている。
そのマチネポエティックの残した成果が
(冨山房)「1946文学的考察」と
いう本になってるらしいが、どこで売ってるんだ?
中村真一郎って文学者だと思っていたら、
東京音楽学校の講師とかもしてたようだ。

個人的に、言葉をリズムに乗せるとなったときに
一番、気になるのは、強音弱音という部分だったり
長音短音という部分だったりします。
歴史的には、イタリアで長音短音だったものが、
徐々に、強音弱音に変わっていって、
イギリスでは完全に強音弱音に変わったらしい。
アリストテレス(古代ギリシャだけどイタリアに近い)の
詩学をみると、
短音長音の表記しかない物が、
ヘーゲル(ドイツ)では強音弱音と長音短音の併記になり
takaさんによると英語には長音も短音もなく
強弱のみだという。

母音一音が一音節だとして、長音というのは、
母音の間に子音が二個以上入っているのが長音、
それ以下なのを短音というらしい。(ヘーゲル「美学講義」より)
アウトノ宮さんが言うには日本語には長音がない。
日本語で短音長音を意識した詩なんてありえない。
だから、そんな分析は無意味だと。

で、俺はね。活字系のオフ会(インターネット創作作家協会)
http://www.i-sakka-kyoukai.com/
で、みんなで酒飲んでたら
普段、難しい文学書いてるような女の子が、
手を猫みたいにして、こめかみの所へ持ってきて
「**だにゃん!」とか言ってるわけ。
俺らも調子乗って「**だにゃん!」と
恥ずかしげもなくやってるのよ、30にもなって。
して、「だにゃん!」という語尾は、ローマ字で書くと
da-nyanであるわけで、
母音間に2つの子音が付いた長音であると解釈できる。
つまり、「**だにゃん!」という、この形式は、
そこだけを見ればすごくソネット的であるわけだ。


散文(批評随筆小説等) 詩とは何か——ソネットについて Copyright 木棚環樹 2007-10-19 21:05:49
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